大日本帝国の膨張戦略の根源を考える

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今日は、日本の対外膨張政策がどうして止まらなかったのかについての考察です。

■明治時代の専守防衛から侵略への転換

明治政府の国防方針は、当初は海峡と東京湾に砲台を築いて外侵に備えるというものでした。しかし明治前期末から外征方針が本格的に語られ始め、明治21年には山県有朋の発案で専守防衛戦略を大転換する軍政改革が実施されました。拠点防御を念頭に置いた郷士軍から機動的な師団編成への転換がこれです。

そして明治23年、山県有朋はその戦略を理論化する意見書を書きました。それが「外交政略論」です。

国家独立自衛の道二つあり。
一に日く主権線を守禦し他人の侵害を容れず、
二に日く利益線を防護す自己の形勝を失はず。

要するに、2段構えの防衛策をとる、と。

主権線=国境ライン
利益線=外国勢力の進入を前進的に阻止するライン

国境を確保するだけでは、その防衛ラインを破られれば直ちに国の本体が脅かされるので、国境ラインの外に防衛ラインを設けます。そこが破られても兵力と生産の根拠地である本国が健在ならば国境で反撃ができる。そういう体勢を採ろうというわけです。

これはヨーロッパで生まれた戦略思想であり、それ自体は合理的な思考です。2国が互いに相手を利益線だと考えれば、そこに共同防衛戦略が成立しますからね。日韓合邦論などはこういう互恵的戦略思想にもとづいています。しかし現実はそんなにうまく行きませんでした。

■韓国を併合するまで

利益線は朝鮮だ、と日本は言いました。よって朝鮮に軍を配置しなければならぬと。

ところで逆に見れば日本が朝鮮にとっての利益線ということになります。ならば朝鮮軍を日本に駐留させるのでしょうか。明治政府はそれを認めませんでした。日本にとって朝鮮は対等の相手ではありませんでした。朝鮮は日本の盾になるべきだが、日本は朝鮮の盾になるつもりなどさらさらないのです。ですから日本の場合、利益線とは排他的経済圏と同じ意味をもちました。ここが「外交政略論」のはらむ欠陥であり、大日本帝国を滅亡に導いた主原因でした。

当然のことですが、こんな身勝手な戦略を朝鮮が受け入れるはずがありません。しかし受け入れてくれなければ防衛戦略が成り立たないのです。そこで日本は軍事力で要求を押し通すことにしました。これが過ちのスタートです。

朝鮮には清国というバックがいますから、要求を押し通すには、まずその影響力を排除しなければなりません。そこで日清戦争を起こしました。

清国を追っ払って朝鮮を利益線として確保すると、今度はその外側の満州にいるロシア軍が朝鮮を脅かしていると考えるようになりました。そこで日露戦争を起こして、満州を確保しました。

しかし運動はここで終結しません。ここまで資金と人命をつぎ込んだのだから、韓国を単なる利益線にしただけでは割に合わないということで、国そのものを併合してしまったのです。

■際限なき拡大

韓国を日本の領土にしたら、そこが日本の主権線ということになります。玉突きの要領で、今度は韓国のとなりの満州が日本の直接的利益線となりました。利益線とは排他的経済圏ですね。そこで満州に多額の投資をして日本の権益を広げました。

けれども満州が排他的経済圏だと思っているのは日本だけで、そこを領有していたのは中国政府です。自国内部に外国の排他的経済圏など作られてはたまりませんから、中国は強力に反日戦略を推進しました。すると日本はその権益が脅かされたと言い始め、満州を分捕ってしまいました。

そればかりではありません。1916年の第4次日露協約で、日本とロシアは中国に手を出そうとする第三国があれば日露で共同軍事行動を起こす約束をしています。すでに中国本土をも勢力圏内に入れるべく照準を合わせていたのです。

こうした対外膨張の自己運動は、「外交政略論」のいう「主権線」とか「利益線」が通常の意味を持っておらず、互恵的安全保障からかけ離れた、きわめて独善的な戦略であったためであり、その必然的帰結でした。

満州事変のころには膨張の自己運動が加速していたので、いまや「主権線」とか「利益線」という概念では自分の行動を合理的に説明できないまでになっていました。そこで新たに唱えられたのが、「満蒙は日本の生命線」という非合理的・情緒的なスローガンです。

生命線を英訳すればライフラインとなります。たとえば石油の運搬ロードはライフラインと言えます。けれど満州と蒙古は日本の死活的な原料供給地ではありませんでした(石橋湛山が経済的に分析しています)。植民の対象地とか、原料供給地とか、資本投入地とか、軍事的緩衝地帯とかのイメージを漠然と投影した用語です。あまり戦略分析などされないまま、そう言われればそんな気もするという程度の、非論理的な用語が一人歩きしていたのです。

こんなことでは満州・蒙古を獲得すればつぎはシベリア地方、バイカル地方、華北地方、中原地帯……と際限なく膨張を続けるしかありません。実際に日本軍はそういう行動を起こしました。シベリア出兵で日本軍はバイカル湖まで進出しています。

■日韓併合は侵略か

話を広げすぎました。

ともかく日韓併合というのは、いま見たとおりのかたよった国家戦略から必然的に導き出された政策なのです。韓国人がそれを望んだとか、インフラ整備をしたとか、教育を施したというのは事態を正当化するために後から付された詭弁でしかありません。実際に起きたのは、徹頭徹尾日本の都合にもとづいた、隣国併呑でした。これが、ゆるがせにできない歴史事実なのです。

軍事的対決を経ていないのでこれを侵略ということは躊躇するという意見がありますが、私は侵略だと思います。軍事的圧力を加え、国王や議会を強迫して条約に調印させ、国を奪えば侵略だと思います。侵略には武力行使が付きものとばかりも言えませんしね。

大北方戦争でエストニアはロシアに抵抗せず無血降伏しました。第2次大戦でデンマークはドイツに抵抗せず無血降伏しました。ロシアとドイツは武力を行使せず、その圧力だけで平和裡に降伏条約締結に追い込んだのです。バルト3国も形式的には自ら要求してソ連に併合されています。オーストリアも自ら要求してドイツに併合された形式をとっています。しかしどちらも、その内部に買弁勢力を養成したのはソ連でありドイツでした。いまではこれらが侵略でないという人はいません。

しかしまあ本質は、侵略かどうかという言葉の問題ではなく、軍事的圧力を加え、国王や議会を強迫して条約に調印させ、国を奪うのは不正義であることということです。

■まとめ

この作文はとても大雑把なつかみ方ですけど、日中戦争は蒋介石に引き込まれたなんていう言い訳より、よほど資料根拠があると思っています。

確かに中国は巨大な後背地を生かして持久戦略を採り、日本を内陸部に引き込んで戦う戦略をとりましたが、それはウォ-ポテンシャルが低いのに日本が攻撃一辺倒でのめりこむことを見透かした上での合理的戦略です。日本の愚かさが見抜かれていたのです。そんなものに「うっかり乗せられた」というなら、よほど日本軍が間抜けだったということにしかなりません。世界史的にもナポレオンに対抗したロシア軍がこの戦略を採っているのが有名ですね。

国家指導者が賢明であれば避けられた歴史です。すでに日清戦争のとき勝海舟は、「アジア同胞の清・韓を伐てば、ロシアほか列強の介入を招いて、結局は東洋崩壊を招くだけだ」と警告をしていました。日清戦争後たった50年で、事実その予言通りになったのです。

ずっと以前から思っているんですけど、戦後民主主義の理想主義的な思想や政策論なんかは米国から輸入されたように語られていますけど、幕末から明治、大正、昭和にかけて、日本社会が自ら生み出した思想にも戦後民主主義思想に通じるものがずいぶんありますよね。

そういった思想系譜については自由民権運動や大正デモクラシーが突発的で一時的な現象として脈絡もなく教えられるんですけど、そんなに急に大衆が覚醒するわけはないんで、そこに至る思想運動が、先見的な大衆を部分的に組織しながら、江戸期から延々と続いてきたんじゃないかなと。

それは日本の中央集権教育の進展とともに押し潰されていったわけなんですが、それでも底流としてはファシズムに堪え忍んで生き残っている。だから戦後にあれほどたくさんの民間憲法草案が輩出したんだし、デモクラシーが急速に定着したんじゃないかな。(このあたり、やや強調しすぎかなと思いつつ)

いまの教科書は日本に内在した思想的潮流をあまりにも軽視しすぎているんじゃないんでしょうか。だから戦後民主主義がいかにも唐突に現れたように言う新自由史観派が「自虐史観」なんていうと、真に受ける人がいっぱいできるんじゃなかろうか。

佐久間象山や山片蟠桃なんかの思想とか、赤松小三郎の業績なんかをもっと詳しく知るべきですよ。思いつくままなので脈絡ないですけど(^^;)。モンテスキューやカントの名前だけ知ってるような日本の教育は、明治時代の脱亜入欧教育の継承でしかなく、悪しき伝統墨守だと思います。

そう言えば自虐思想と言えば、明治期の福沢なんかを嚆矢とするんじゃないんですかね~。あ、またそう言えばですけど、教育勅語も山県有朋だなあ。なんて書いてたらとりとめもなくなっちゃうのでこのへんにしとこ