公文書に見る従軍慰安婦(1)

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慰安婦には朝鮮人が多かったが、日本人も多かった。ここでは主に日本内地ではどのような様子だったかを、公文書をもとにしてまとめてみる。

なにせ朝鮮の記録は一切合切、焼かれてしまって残っていないのだ。

記録によれば、内地でも誘拐まがいの募集があったので、行政(軍)側が困惑しているのが読み取れる。日本本土でもそうなのだから、朝鮮半島や占領地ではどうだったか。記録が焼かれてしまったので断定は差し控えるが、常識的に言えば、募集にあたった業者が内地以上に上品だったとは、とても考えられない。

さて、慰安所の始まりは昭和12年にさかのぼる。当初は軍の直営だった。

独立攻城重砲兵第2大隊本部 12月陣中日記

慰安施設は兵站の経営するもの及び軍直部隊(大隊本部のこと)の経営するものの二ケ所ありて、定日に幹部引率の許におおむね一隊、約一時間配当なり。

しかし軍直営はほどなく減少した。戦争の片手間に慰安所経営なんてやってられないからだろう。入れ替わりに、軍の監督下に民間業者が経営する慰安所が増える。

慰安所開設にあたっては、領事館と警察が協力した。「上海領事館発 長崎水上警察宛 昭和12年12月21日文書」というのが残っているが、長いので要約する。

上海領事館発 長崎水上警察宛 昭和12年12月21日文書(要約)

「兵の慰安について関係諸機関が協議した結果、つぎのように決まった。

  • 軍が企画する。
  • 領事館が営業の許認可権をもつ
  • 女性は業者が集める。
  • これを憲兵隊が輸送する。
  • 施設は領事館武官室が設営する。

警察は女性の募集について便宜を取りはからってほしい。」

こういう内容だ。この方針にもとづいて、日本各地で女性が徴募された。しかしこの方針は各地で拒絶されることになる。

一例として、「群馬県知事の県下警察への命令 昭和13年1月19日」が保存されている。

その文書には次のようにある。

群馬県知事の県下警察への命令 昭和13年1月19日

公序良俗に反する事業を公然と吹聴するようなことは皇軍の威信を失墜させるものであるので、警察には厳重取り締まり方を命じた。

山形県知事も1月25日に、銃後を守る婦女子の精神への悪影響と、売春防止の精神にも反するという理由で、慰安婦募集業務に協力を拒否している。けだし当然の態度である。

いまに至るも「たかが売春ではないか」とバカなことを言っている人がいるが、売春に官権が協力するなどあるまじきことだという常識ぐらいは、当時の行政官でさえ持っていたのだ。