故渡辺淳一と朝鮮人強制連行

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「拉致問題について」
作家・渡辺淳一
週刊現代(2002年10月12日号)

かつて、わたしの祖母や親戚たちは、北海道の砂川や歌志内などで、味噌、醤油などを売る雑貨店や新聞店をやっていたが、この一帯は北海道で有数の炭鉱地でもあった。

札幌の小学校に通っていたわたしは、それら親戚のところへ、ときどき遊びに行ったが、そこで何人かの朝鮮人を見ている。

彼等はいうまでもなく戦時中、日本の権力によって強制連行された人たちである。その数はどれくらいになるのか。一説によると、二百万とも四百万ともいわれているが、かなりの朝鮮人が日本全土に強制的に連行されてきたことは、まぎれもない事実である。

彼等は一様に、真冬でもボロボロの服を着て、痩せて目だけ光っていた。そんな虜囚のような群れが、暗く危険な炭鉱の坑道に送り込まれるのを見たことがある。

さらに新聞店をやっていた親戚の広い庭の下が崖になり、その川沿いに朝鮮人飯場が並んでいた。そこでは朝鮮人たちを労働にかりたてるため、ご飯も立ったまま食べさせて、働きの悪い奴は日本人の棒頭に叩かれて泣いていたと、飯場を覗き見てきた少年がいっていた。

事実、わたしはその少年に手引きされ、恐いもの見たさで飯場に近づき、朝鮮人が半死半生のリンチにあっているのを目撃した。

叔父が、崖の下へ降りてはいけない、といいながら、脱走してきた一人に、餅をあげたのを見たことがあるが、その男は、「アイゴー、アイゴー」といいながら、手を合わせてむしゃぶりついていた。

以上は、わたしが小学一、二年生のとき、一瞬、垣間見た地獄絵である。この結果、どれほどの朝鮮人が行方不明になって殺されたかわからないが、こういう過去があったことはまぎれもない事実である。

ここからは自分の話。

子供の頃、近所を流れる市川沿いに、朝鮮人の集落があった。豚小屋の匂いのする集落だった。鉄道工事に動員されてきた人たちが戦後も住み続けた集落だと、大人たちが語っていた。後に調べたら、鉄道工事ではなく、弾薬庫掘削工事に動員されたことが分かった。

私の母親は、彼らが河原で棒でたたかれて叱られているのを何度も見たことがあり、可哀相だったと述懐していた。逃亡した人が我が家に転がり込んできたことがあって、祖母がおにぎりを与えて逃がしたという話も聞いた。父親も祖父も同じことを語っていた。

そういった小さな歴史が姫路の片田舎にもたしかにあったのだが、あまり語られることもなく、事実を知る人は、今ではもう亡くなってしまった。

姫路城の南にも、廃品回収を生業とする貧しい朝鮮人集落があった。お城周辺の整備のために強制退去させられたのは、そう昔のことではない。姫路城が国宝となり世界遺産になったのは誇らしいが、お城を美しく装うために強権発動があったことも、忘れてはならないことだとと思う。

弾薬庫掘削工事に従事した人たちは、強制連行ではなく出稼ぎだったと、その近辺にいまも住む朝鮮の人から教えてもらったことがある。渡辺淳一のいうような、強制連行されてきた人たちばかりではないのだろう。

しかし来歴がどうであれ、二級民族扱いされ、ほとんど牛馬のごとくに扱われたのは事実だ。そういった民族の力関係の中、朝鮮で生きていけなくなって流浪してきた人が大半なのだから、強権的に連れてきたかどうかという一点にのみこだわるのは、ごまかしだし責任逃れとしか言いようがない。

渡辺淳一氏死去「根源エロス」
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