映画『南京の真実』

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昨日、わが町で映画『南京の真実』の上映会がありました。入場無料だったので、どんなもんかいなと見に行ってきました。その感想を書きます。

長い長い2時間50分(上映前の挨拶を含めれば3時間30分!)でした。まったく無駄な時間を過ごしてしまった。これが正直な感想です。

私が見に行ったのは夜の部。800人収容の市民会館第ホール(昨年の憲法集会ではここに1000人の方が詰めかけました)に、参加者は主催者を含めても200人程度。閑散とした中で、上映会という名の政治集会が始まりました。そのことは後に回すとして、まずは映画の感想から記そうと思います。

そもそもこの作品は、内容を別にして、映画として完璧な失敗作です。とても見られたものではありません。商業ベースに乗るような作品では、まったくありません。見ててあまりに情けないので恥ずかしくなる映画ってありますよね。「南京の真実」はまさしくそういう映画でした。

シナリオが練られていないためか起承転結がぼやけていて、やたら冗長です。いや、ぼやけていると言ってはまるでストーリーがあるようですが、実はストーリーというものがありません。主張というか、愚痴というか、説教というか、そういうものがダラダラと続いているようなものだと考えてください。なにしろ編集が恐ろしくへたくそなので無駄なカットがやたらに多い。だから全体としてテンポが悪く、どこまで行っても山場のない、はじめから終わりまで平坦な、退屈窮まりない作品に仕上がっています。どうしてこんなもののために2時間50分も必要であったのか、全然わかりませんでした。ともかく、座っているのが苦痛でありました。

つぎにその内容について。

これはジャンルとしては歴史映画のはずです。「スタンダードな歴史観とはちがう、もう一つの歴史観」を伝えるのが製作者の意図だったはずです。しかし、その意図は全然成功していません。冷静かつ客観的に「もう一つの歴史の見方」を提示するものではなかったからです。

冒頭、桜の大木の前に並ぶ7人の「能の翁」たちと、能の面をつけた学生服の小学生のシーンとか、自殺した広田弘毅の奥さんが霊となって戻ってくるシーン他、幻想的なカットがあちこちに散りばめられているのですが、ストーリーと無関係なこんなカットがなぜ必要なのか、まったく意味不明です。

日本的情緒だとか伝統文化を重視しているという姿勢を示したかったのかも知れません。そう言えば東条英機を描いた「プライド」には唐突に詩吟が流れてシラけたことを思い出しました。あれも演出としては大失敗だったと思うんですが、同じ失敗を何度繰り返しても懲りないのでしょうかねえ。誰の趣味なんだろうか……。

映画は語ります。「東京大空襲、広島原爆、長崎原爆の死者を合わせれば30万人になる。そこで米国のその犯罪を日本軍の犯罪と相殺するために南京30万人大虐殺という嘘が流され始めた」。さて、この一節だけでいくつものデタラメがあることは、どなたにもおわかりでしょう。

まず第一。

米国は許し難いことに東京大空襲も広島原爆も長崎原爆も、自分たちが犯した犯罪だとは考えていません。正当な戦闘行為であったとして開き直っています。だから日本軍の何か別の犯罪と相殺する必要性など微塵も感じていません。だから米国には「南京大虐殺」をでっち上げなければならない動機が存在しません。映画の主張は根拠なき妄想であるとしか言えません。

つぎに第二。

南京で30万人が虐殺されたと主張しているのは中国の研究者であって米国政府ではありません。中国の研究者が米国の犯罪を相殺してやる必要など、どこにもないはずです。この側面からも、映画の主張は失当というほかありません。

さらに第三。

敗戦直後、東京大空襲による死者は公式には8万人とされていました。広島は7万人、長崎は4万人とされていました。合わせれば19万人です。30万人になりません。ろくな根拠もなく数あわせの主張をしているのでしょうが、それはともかく、死者をこのように「数字」としてのみ考え、数合わせをして「相殺」だなど語るというのはどういう神経なのでしょうか。

原爆の火に焼かれ、つぶれた建物に押しつぶされ、放射能に冒され、もだえ苦しみながら殺されていった一人一人の犠牲者の苦しみ、その怒り、その無念さは、何かと相殺しうるものでしょうか。

南京をはじめとする中国全土、いや日本軍が侵略していったアジアの各地で、日本兵にわけもなく殴り殺されたり、犯されて殺されたり、斬られたり、撃たれたり、その他さまざまな方法で殺された無数の人々の死は、何かと相殺すれば消えてしまうようなものなのでしょうか。

相殺などという考え方がどれほど一人一人の犠牲者をないがしろにして侮辱し貶めているか、映画製作者たちにはわからないのでしょうね。ここにかれら歴史修正主義者の人間的退廃がよく表れていると私は思います。

これは長い映画の中の、たった1~2分のカットについて述べたものです。そのほかにもおかしな主張はいっぱいあるのですが、あまりにも馬鹿馬鹿しい主張なのでいちいち批判するのは疲れるし、そんな暇もありません。

あと一つだけ、この映画が南京虐殺を否定する有力な根拠としてあげている例の一つを紹介しましょう。

それは、「戦争中に日本の映画館で上映されたプロパガンダフィルムに虐殺が写っていないから、虐殺はなかった」というものです。「皇軍のめざましい活躍」を宣伝するプロパガンダフィルムに大量虐殺死体が写っていたら、その方が不思議だとは思わないのでしょうか。この信じがたいほどの知的退廃に、私は一人苦笑を禁じ得ませんでした。こんなデタラメなメッセージが2時間50分の中にへたくそな演出手法で何度も何度もだらだらと流される映画とはどういうものか、想像してください。

しかし考えてみれば、この映画の低水準ぶりは幸いなのかも知れません。あまりにも退屈な映画なので、ほとんどの観客に歴史修正主義者のメッセージが届かないだろうという意味において。

さて、この映画は主催者が言うように「芸術」なのでしょうか。まったく違います。敗戦に対する見当違いの怨念、大日本帝国へのルサンチマン、共産主義に対する憎悪。それだけを過剰に露出させた、完全な政治映画です。芸術的価値など、どこを探してもカケラも見あたりません。上映会冒頭のあいさつで語られるのも政治的な訴えばかりでした。壇上で語られる話に腹の中で笑いました。

「戦後日本を退廃させたのは、何でもかんでも日本が悪いという東京裁判史観である」
「東京裁判史観は共産主義の陰謀である……」

やれやれ。何を言い出すのやら。東京裁判を主導したのも戦後日本を牛耳っているのも米国です。米国は共産主義の国ではありません。戦後、共産主義者がこの国を支配したことなど一度もありません。国民世論を支配できたこともありません。戦後日本が退廃しているとすれば、その責任は米国とか自民党とかにあるはずです。こんなことがどうしてわからないのだろう、この人たちには歴史の真実など問題外なのだろうなあとつくづく思いました。

それにしても、南京大虐殺を否定できれば日本の誇りが回復できるなどと、この人たちは本気で考えているのだろうか。当時は中国が日本を侵略していたわけではありません。中国は日本領土に1ミリだって侵入していません。日本が一方的に中国に無理難題を押しつけ、それに従わないのが不当だと言って攻めかかっていたのです。日本が侵略しているのに中国が屈服しないのが許せない、日本をなめているのかというのが、日本政府の言い分でした。こんな言い分で上海から南京へと攻めていったのです。虐殺があったから悪いとか、虐殺がなかったのなら罪が消えてなくなるというような話ではないじゃないですか。

大金をかけてこんな映画をつくり、タダで市民に見せて、その資金はどこからくるのでしょう。そのどす黒い意図と情熱に、私は薄ら寒いものを覚えます。ただしそのあまりの低水準ぶりに、笑ってしまいたくなるのも事実です。こんな薄っぺらい歴史観が成功するとはとても思えません。

思えないけれど、しかしこの国はかつて、国をあげて「天皇陛下は天から降りてきた神様の子孫である」などというおとぎ話を信じないといけない時代を経験しました。そのことを思い返せば、どんなに低水準の相手であっても気を緩めないで警戒し、戦わねばならないなとも思いました。