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強制集団死事件についてよく言われるのが、「証拠がない。証言だけだ」ということ。
「命令を聞いたという証言がある」
「いや、言っていないと言う証言がある」
こんな言い合いでしたら、それは水掛け論でしょうね。口頭で言った言わないの争いになると、言っていないと否定する側が絶対的に有利です。「集団自決」についても証拠文書を出してみろと言われれば、もともとそんなものはないのですから、言われた方は困ります。
それではまったく証言があてにならないかと言うと、そういうことではありません。証言をとりまく状況がありますから、それをよく見れば証言の真実性が浮かびあがってくると思います。
「集団自決」について、水掛け論をできるだけ避けるために、客観的な記録と、証言を採用するにしても双方の証言が一致している部分だけを使って、経過を見てみましょう。
■部隊長の行動について
沖縄には第32軍の「軍民共生共死」の方針がありました。これは正式の公文書として残っています。この方針は下級部隊に対する命令として機能していました。
問題の部隊長がこの方面軍の命令に忠実だったことは、「軍民共生共死」の方針に従って「軍民分離」を行っていないことで示されています。参考までに、方面軍の方針に反して軍民分離が行われた地域もあり、そこでは「集団自決」が起きていない事実を挙げておきます。日本軍のいない島でも例外的に一件だけ、一家の無理心中事件はあったようですが。
渡嘉敷島では「集団自決」は島の軍陣地附近で行われました。司令部は前日まで別の所にあり、ひそかに移動した直後でした。場所が秘匿されていたはずの軍司令部に村人全員が、しかも同時に集結しています。呼び集めたのは軍との連絡係だった巡査でした。
手榴弾が軍のものであることは双方が認めています。隊長の許しなくして手榴弾が配られることはありません。何の目的があったにせよ手榴弾を民間人に配ったのですから、軍としては住民が指揮下にあると自認していたことを示します。
「集団自決」が突発的な出来事ならば普通はあわてるはずです。自分の指揮下で300人以上の住民が死ぬという大事件が起きたのですから。この大変な事態にあたり、部隊長は驚いた形跡がありません。住民は部隊長どころの騒ぎではありませんから、部隊長がそのとき何をしていたのか、何の証言もありません。
部隊長自身はというと、何かをしたと一言も言っていません。どうやら何らの対応もしていないようです。少なくとも、直ちに治療を命ずるぐらいはして当たり前です。しかし部隊長は事件後に救出活動をしていません。平然としています。生き残った村民を救おうとしたのなら、それは自分が自決を命じなかった論証のひとつとなるのですから、黙っているはずがありません。けれど部隊長は何かを命じたとは言いません。何時間も続いた阿鼻叫喚の地獄図に、どうして平然としていたのでしょうか。
落ち着いたあとには、部隊長は調査をするべきだったでしょう。勝手な集会が禁じられていたのに、どうして住民が、しかもよりによって軍陣地近くに集まったのか。軍の命令がないのであれば、軍の武器がどうして住民に渡ったのか、なぜそれが軍の許可なく勝手に使用されたのか、誰も現場を見ていなかったのか、それは警戒心が足りないではないか、見ていたのなら、どうして止めなかったのか……
由々しき事態なのですから、断固たる調査が必要です。しかし部隊長は調査を命じた形跡がありません。(まるであらかじめそうなることを知っていたかのようで、まことに不自然な不作為です。)
これらの外形的状況に加えて、住民の証言があるのです。証言にはリアリティがあって、作り事めいたところはありません。しかも証言は客観的な様相と相応しており、起きた事態を矛盾なく説明できます。
明示的な命令文書がなくても、これらの状況証拠の積み重ねにより、命令の存在を合理的に推認できます。
逆に、命令がなかったとすると、経過のところで示した部隊長の行動あるいは不作為を説明しにくいのではないでしょうか。「集団自決」の動機や原因も説明できません。「混乱」や「米軍に対する強迫観念」では「集団自決」は説明できません。なぜならそれは日本軍が健在で指揮系統がしっかりしていた地域で起きており、日本軍が瓦解して混乱した地域ではむしろ起きていないからです。
人間の平明な理性にもとづくならば、明示か黙示かは不明ですが、ここに軍の命令を見ないことの方が困難だと思います。
■軍命令は年金のためのでっち上げという照屋証言について
住民の証言について考えてみたので、つぎに否定派の証言も状況と照らし合わせつつ考えてみましょう。代表的なものとして、照屋証言をとりあげます。
照屋証言をまとめれば、つぎのようになります。
(1) 氏は沖縄県援護課職員として渡嘉敷島住民の聴き取り調査を行った。
(2) 聞き取りをした300人の島民の誰一人として、軍の命令があったと言わなかった。
(3) 当時、厚生省は民間人には援護法を適用しない方針だった。
(4) しかし氏が食い下がったので、軍の命令があれば援護法を適用すると態度を改めた。
(5) 氏は住民のために、赤松隊長に軍命があったことにしてくれと頼んだ。
(6) 赤松隊長の同意を得て、軍命文書を氏が偽造した。
(7) その文書を厚生省に提出した。
(8) その結果、民間人にも援護法が適用されるところとなった。
まるで講談みたいな話ですが、否定派は信じ込んでいます。
これが事実なら大変なことです。個人の偽造文書で国の大方針が変更されたというのですから。照屋さんはよほど優秀な青年だったのか、新人なのに厚生省との交渉を任されて出向いたと言います。役所に入りたての一青年の力で厚生省が動いたのでしょうか。厚生省はただ一枚の文書で方針を変えたのでしょうか。厚生省はどういうわけで、その紙切れを信じたのでしょう。赤松隊長本人やその上司、部下たちにに裏付けを取らなかったのでしょうか。赤松隊長は、厚生省の調べを受けたと言いませんでした。部下も厚生省からそういう問い合わせを受けたのだったら黙っていないでしょうに、誰もそういうことを言いません。
また、証言には、具体性が決定的に欠けています。照屋さんはどういう権限を持った職員だったのでしょう。誰の指示で渡嘉敷島に調査に出向いたのでしょう。上司は何という人だったのでしょう。一緒に調査に回った同僚は誰でしょう。聞き取りをした相手の名前を1人ぐらい記憶していてもよいだろうに。厚生省の係官は誰だったのでしょう。それを言ってくれれば、当時の担当者名は部内資料を調べればわかるのだから、氏の証言は俄然、信憑性が高まるのに。ところが、証言には人名がまるで出てきません。照屋さんは具体的なことを全然証言していません。
証人尋問の機会があれば、これらの疑問に照屋さんはきっと答えてくれるはずです。彼が真実を述べているのならば。ところが、否定派側はこの重要証言を前にしながら、なんと照屋さんを証人申請していません。なぜですかね?
■照屋証言の嘘
今回の裁判をきっかけにして、照屋さんが聴き取り調査したり厚生省に出向いたりしたという時期、彼は正規職員ではなく嘱託、つまり臨時雇いの身分だったことがわかりました。どうして正規職員のようなことを言ってきたのでしょう。産経新聞から引用している人はみんな彼が正規の職員であるかのように書いています。照屋さんはどうして訂正しなかったのでしょう。なぜちゃんとしたことを言わずに黙っていたのでしょう。
ともかく、彼が厚生省に出向いたはずの時期、彼は臨時雇いでした。臨時雇いの一青年が、厚生省との交渉を任されたのでしょうか? そういうことが可能性としてないとは言えないけれど、考えにくいことではあります。
氏が厚生省をだましたという「偽造の軍命文書」ですが、厚生労働省は情報公開請求に対して、「そのような文書は存在しない」と回答しています。厚生省にだけ提出して、沖縄県に報告しなかったのでしょうか。写しはとっていなかったのでしょうか。赤松隊長はどうして控えを保存しておかなかったのでしょうか。そもそも、本当にそのような文書があったのでしょうか。疑問だらけです。
援護法が公布されたのは昭和27年4月です。それが沖縄に適用されたのは昭和28年3月でした。住民などの戦闘協力者を援護法の対象とする方針が決まったのは28年7月でした。照屋さんが臨時雇いとして沖縄県に採用されたのは昭和29年12月です。住民が援護対象になることが決まった一年以上あとです。すると照屋さんと面談したという厚生省の係官は変な応対をしたことになります。照屋さんも、しなくてもいい努力をしていたことになります。不思議な話です。
昭和29年から32年にかけての時期は、援護法適用にあたっての細かい法整備や要綱づくりがされていた時期です。(具体的な中身が作られて実際に適用が開始されたのは昭和32年です。)住民がどのような戦闘協力をしたのか、国の調査が続けられました。国は琉球政府だけに調査を任せていたのではありません。政府職員を派遣してフィールドワークに当たらせています。照屋さんは1週間ほど滞在して調査したと言っていますが、政府職員は3年間もかけて調査しています。
そのうちの一人である馬渕新治総理府事務官(元大本営船舶参謀で、復員後日本政府沖縄南方連絡事務所に勤務した)は、昭和32年に作った「住民処理の状況」という文書で「日本軍による自決強要事例」という表現で「集団自決」に触れており、島民の悲嘆と部隊長への反感について書いています。これは自衛隊幹部学校で講演するにあたっての資料で、昭和36年に陸上自衛隊幹部学校が発行した「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」に収められています。
政府の調査官が「日本軍による自決強要」といい、部隊長への反感に直接触れています。同じ時期に同じところで調査していたはずの照屋さんだけが「そんな話は聞かなかった」といいます。もちろん照屋さん以外の県職員は「軍命あり」の証言をたくさん集めて記録し、公文書として残しています。照屋さん一人が「軍命があったなどという話は聞かなかった」と、ずいぶんたってから言い始めました。照屋さんが聞き取りをした記録はどこにあるのでしょう。どこにもありません。ただ彼が今になってそう言っているだけのことです。
彼が嘘をついていないならば、本当に、不思議なことばかりです。否定派はこの矛盾をどのように理解するのでしょうか。でも彼が嘘をついてるのだとすれば、全ての疑問は氷解します。
■それは「証言」なのか
以上のとおり、呼び名は同じ「証言」ですが、2つは全く異なります。
住民の証言は、
(1) 事件当時の同時代証言が多数含まれている。
(2) 難民キャンプにいたなどの理由で互いに連絡の取れない人の証言が、示し合わせたわけでもないのに、細部に至るまで一致している。
(3) 日本に「援護法」などカケラもない時期の証言が多数あるので、「援護法目当ての偽証」という解釈は当たらない。
(4) 強制集団死が援護法の適用対象となった昭和28年3月以後の証言についても同じことが言える。
(5) 部隊長の命令があろうがなかろうが「援護法適用」の結論が変動することはないので、住民には「偽証の動機」がない。
(6) 証言は客観的状況と一致しており、矛盾がなく、軍命の存在を前提にしたほうが起きた事態を合理的に説明できる。
(7) 逆に証言の信用性を否定すると、客観的状況と矛盾するので事態を合理的に説明できない。
(8) 利害関係人でない政府派遣の事務官が同時代に軍命に関する証言を記録している。
(9) 学問的研究の対象となっており、学術的検証を経ている。
(10) 政府が証言をオーソライズしている。
これに対して否定派証言は、
(1) 同時代証言がない。
(2) 客観的状況とそぐわない。
(3) 証言に矛盾点が多すぎる。
(4) 学術的検証を経ていない。
(5) 公的機関からオーソライズされていない。
こういう特徴があります。ですから同じ証言という名称ですが、その性格は全く異なっており、同列に並べて比較することがそもそも無意味です。
たとえ話をしましょう。
重力が光を曲げるというアインシュタインの一般相対性理論は証明されていない仮説である。光を曲げているのは目に見えないタヌキであるという私のポンポコ理論も証明されていない仮説である。どちらも仮説である点において同等なのだから、扱いは平等であるべきだ。よって、一般相対性理論だけを教科書で取り上げるのは不当であるから、削除すべきである。
否定派の言い分はこれと五十歩百歩だと思います。
■つくられた「証言」
つぎに、証言のふりをした創作について述べます。
「集団自決」の体験者が「軍命ねつ造」を認める証言をしているという話が繰り返し語られています。たとえば次のような話が代表的なものです。
(1)元援護係の宮村幸延氏
宮村幸延氏は梅澤さんに「軍命令のねつ造」を謝罪した上で、それまでの胸のつかえを一気に取り去るように、援護法を適用するために軍命令という事実を作り出さなければならなかった経緯を切々と語った。そして、今日の座間味島の繁栄が梅澤さんの犠牲の上に成り立っていることを述べ、真摯な謝罪を繰り返した。その上で、「援護法めあてで偽証したことを謝罪する」という内容の覚書を書いている。
(2)「集団自決」体験者で生き残りの宮城初枝氏
「集団自決」にあたって軍に自決用の道具を貰い受けに行った5人のうち、ただ1人の生き残りだった宮城初枝氏は、「隊長は、自決してはならん、弾薬は支給しないと明言しました。そのことを知っている唯一の生き証人です」と証言しており、梅澤さんに何度も謝罪している。
(3)沖縄タイムス
他に、体験者ではないが事情をよく知っている関係者として、沖縄タイムスの証言もあるといいます。沖縄タイムス社が梅澤さんが自決命令を出したものではないことを認め、非を詫びて謝罪し、間違いを訂正することを約束した。そればかりか梅澤元部隊長に対して「軍命令のねつ造」について認め、謝罪の内容をどのように書いたらよいか尋ねた。「謝罪の事」という沖縄タイムス社の文書が現存している。神戸新聞の取材に対しても、沖縄タイムス社の牧志伸宏氏が、「梅澤命令説は調査不足があった」と答えており、神戸新聞の記事に掲載されている。
さて、これらの「証言」とは、「梅澤元部隊長が、そう語っている」というだけのことなのです。複数の人物が出てきますが、出所は梅澤さんただ一人なのです。そのことは、裁判所に提出された梅澤氏側の準備書面にはっきり書いてあります。
■すべては梅澤さんの自作自演
(1)宮村幸延氏証言
宮村証言といわれているものは、じつは梅澤さんの口を通して語られているのです。宮村さん本人が公開の場で語ったものではありません。そのことは、梅澤さん側の弁護団の準備書面がこう書いているのでわかります。
>本日提出した補充陳述書の中で梅澤さんが述べている通り……
このとおり、「謝罪した」とか、「ねつ造を認めた」とかはすべて梅澤氏一人がそのように説明しているというだけのことです。
(2)宮城初枝氏証言
これも同じです。宮城さんの発言として産経新聞などが伝えているのは、梅澤さんの口を通して語られているものがすべてであって、宮城さん自身が公開の場で語った言葉は一つもありません。弁護団の準備書面にも、梅澤さんが座間味島で初枝氏に再会した際に梅澤氏がそう聞いたと、梅澤さんの言葉が引用してあるだけです。
(3)沖縄タイムス「謝罪文」のトリック
では何の根拠もないのに、どうして沖縄タイムスは梅澤さんに謝罪文を書いたのでしょう。そのトリックも梅澤さんの弁護団が自ら証してくれています。
>梅澤さんが一言々々、自らの求める謝罪内容を口で伝え、沖縄タイムス社の方で書き取ったもの、それがこの書面なのです。
このように、梅澤氏の一方的な言い分を沖縄タイムス強引に書き取らせただけのことであって、沖縄タイムスが自分で書いたとか、書いた内容を認めたとか、そんなことは梅澤氏側の代理人さえ述べていません。
(4)宮村幸延氏の謝罪覚え書きの真相
ところで(1)の証言をしたという宮村幸延氏は、その証言をするにふさわしい人物だったのでしょうか。いいえ、彼は「集団自決」の体験者ではありません。沖縄にいた人でもありません。事件当時の彼は、山口県にいたのです。他県にいて真相を知らない人が、仮に「集団自決の軍命というのはウソでした」と謝罪していたとしても、そんなものに何の値打ちがあるのでしょうか。
値打ちがあるのです。
少なくとも、梅澤部隊長にとっては、利用価値がありました。
これは私の想像ですが、沖縄タイムスがそれで一時混乱したのではないでしょうか。宮村幸延氏はいま書いたように第三者にすぎませんが、沖縄タイムスは彼が第三者であることを知りませんでした。「体験者がこう書いていますよ」と他の新聞社から彼の書いたという「覚書」を見せられたうえで、「調査不足じゃないんですか」と問われれば、初めて知る事実ですから、それは新聞社としては「調査不足があった」と認めるしかないでしょう。それが神戸新聞に掲載され、いまも最大限に利用されているのです。(ただし宮村さん自身が神戸新聞から取材されていない形跡もありますので、このあたりの事実関係は不明です。)
梅澤氏が沖縄タイムスとの面会に成功してそれなりに応対させているのも、彼が「覚書」を持参したからです。こういうやり口って、許されるのでしょうか。
■「軍命による自決」とはなにか
部隊長の命令があったことは状況証拠から確実ですが、否定派は「状況証拠や証言はあてにならない」として切り捨てるでしょうから、そういうものに頼らずに具体的に見てみましょう。
まず、「60万県民の総決起を促し、もって総力戦態勢への移行を急速に推進し、軍官民共生共死の一体化を具現し……」という沖縄方面第33軍の「軍民共生共死」の「県民指導要綱」により、民間人が軍の直接・間接の指揮下に入ることになりました。
具体的には「陸軍防衛召集規則」によって14歳から40歳までの県民が軍の直接的の指揮下に組織されました。部隊長の許可を得ないで家に帰った県民が処刑されていますから、県民にも軍法が適用されていたことがわかります。
男女学徒は鉄血勤王隊などに組織され、地雷を抱いて戦車に飛び込むよう命令されています。軍の指揮下にあったのです。県や村の行政組織も軍の指揮下に入りました。町長や村長の指示は軍の命令として伝えられました。法令外の命令もありました。渡嘉敷島では国民学校(小学校)6年生以上が動員されています。
このように県民はそのとき、軍の指揮下に統制されており、明文上の根拠のない命令でも軍命として強制されていたのです。
■「玉砕命令」はなかったのか?
さてこういう状況下における「集団自決」を考えましょう。
沖縄では「玉砕命令」は下されませんでした。すると自決した将兵は牛島司令官の命令もないのに、勝手に個人的に死んだのでしょうか。玉砕命令が出ていないのだから、彼らは自己責任で勝手に死んだのでしょうか。いいえ、軍務にもとづく戦死として扱われています。軍務とみなされているのですから、命令の存在が公的に認められているのです。
多くの兵たちは軍から支給された青酸カリや手榴弾で自決しています。同じ状況で、住民に対しても軍から手榴弾が支給されています。住民がそれで死んだ場合だけ、どうして個人責任なのでしょうか。軍命による公務死に決まっているではありませんか。
■民法で考えても
それでも彼らは民間人だったから違うと言うのでしょうか。民間人にも軍法が適用されていたのだから、その反論は通用しません。しかし百歩ゆずって、軍法ではなく民法で考えましょう。
(1)住民は軍に欺罔(ぎもう)されていた
「米軍に捕まったら女は強姦、男は殺される」との噂が軍から流されていたことは、軍関係者の誰も否定していません。しかし実際には、捕まった多くの人がそのようなことをされていません。つまり「自決」をした人は軍から流された誤った情報に欺罔されていたわけです。ここがまず第一です。
(2)住民は軍に追いつめられていた
本島のあちこちで、投降しようとした県民が日本軍に殺されています。投降を呼びかけた県民も殺されています。この事実は否定派の研究家も否定していません。すると県民は投降できない状態にあったわけです。しかも女、子ども、老人には戦う能力がない。戦えない人間を投降もできない状態に追い込んだのは軍です。自決しかないと思わせたのは、かねてより、いざとなればそうしろと言い含めていた軍の責任です。
(3)住民に自由意思はなかった
軍が住民を欺罔し、強制化において、その意思決定に重大な瑕疵を生ぜしめたことにより、住民の行動は自由な意思に基づくものとは認めがたい状況です。このような状況下で自決を選択肢に入れて手榴弾を手渡すのは、現代の最高裁判例ならば「殺人」とみなされかねません。戦前の大審院でも、少なくとも自殺教唆と判断するのは間違いないところです。つまり軍による強制死なのです。このような事実と論理により、住民には自決命令が下されていたと考えます。