憲法と自衛隊(2)改憲論を批判する

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「憲法はアメリカから押し付けられたものだ。」
「日本が自分自身で一から憲法を作るべきだ。」
この意見、改憲派の間では、なかなか人気があるらしいです。しかしこういうことを居酒屋でオヤジがつぶやいているのは勝手ですが、公的な場所で持ち出すのは不適切だと思います。

■押しつけ論1 形式的な面では自主憲法である

まず形式的な面からみますと、押し付け憲法だとは言えません。憲法の内容は、衆議院と貴族院が審議しました。その上で国会の圧倒的な支持のもとに、正式に制定されたのです。憲法を決めたのはアメリカ議会ではなく、日本の国会なのです。

反対する権利もありました。実際に、たった8人ですが、反対しています。共産党は条文が自衛権を否定していると解釈し、それは間違っているとして反対しました。反対する動機は正しかったと思います。しかし、大多数の議員は自主的に賛成したのです。

だからこれは日本国民の代表が議会で正式に成立させた憲法であって、「押し付けられたもの」とは言えません。あとになって「内心とはちがう行動をとるしかなかったのだ」などと言い訳した議員もいます。しかし、内心の自由に従って反対した議員がいるのですから、何の言い訳にもなっていません。

■押し付け論2 どうして押し付けられたのか

これから、今書いたばかりの自分の意見を否定します。

形式的には自主憲法だと書きましたが、実質は押しつけであったのが事実だと認めようと思うのです。占領軍の力がなければこの憲法が制定されることはなかったでしょうから、たしかに押しつけと言える余地があります。でもそうなったのはなぜでしょうか。

大日本帝国が周辺諸国にさまざまな無理難題を押し付けた、その結果ではありませんか。

大日本帝国はその70年の歴史で、何をしたのでしょうか。中国に領土分割要求を押し付けて、台湾や満州をうばいました。軍事的に屈服しろと要求を押し付けて、内陸部にまで攻め入りました。韓国に併合を押し付けて、植民地にしました。創氏改名や皇民化教育を押し付けて、民族アイデンティティを奪おうとしました。アジア諸国に「大東亜共栄圏」を押し付け、領土を奪いました。…その他、その他。

その結果、国際社会から大反撃をくらいました。2千万人とも称されるアジア諸国民の尊い命を奪った大日本帝国は、310万人もの同胞のかけがえのない生命を失い、最終的には軍事的敗北を押し付けられる結果となったのでした。いわば大日本帝国の自業自得とも言える結果で、それがゆえに大日本帝国は滅んだのでした。

日本が「普通の国」になるべきだという論は、大日本帝国がけっして普通でない歴史を歩んだ結果として、今日の日本があることを忘れているのではないでしょうか。「普通の国」論については、また項を改めて触れたいと思います。

■押し付け論3 誰が、何を押し付けられたのか

大日本帝国の侵略政策は国民の真意だったのでしょうか。正当な方法で国民の議論を経て、あのような政策が民意を得て展開されたのでしょうか。それとも残虐なテロルを含んだ言論弾圧と、大政翼賛プロパガンダによって、国民に戦争賛美思想が押し付けられていたからできたことでしょうか。大日本帝国臣民から自由と権利が奪われており、それゆえに極端な思想が国を支配できたのだと私は見ています。

では、考えましょう。敗北後に、誰が何を押し付けられたのでしょうか。政府や財閥の権力を制限し、国民に自由と民主主義と平和を保障する憲法を、大日本帝国の残滓たる勢力に対して押し付けられたのではないでしょうか。憲法は、軍国主義者や財閥や貴族たちに押し付けられたのだと私は考えています。押し付けられた中身は、国民の自由と権利。そして平和主義。

占領下で、外国の強力な圧力によって制定されたそのプロセスは、ほめられたものではないかも知れません。しかし国民はこれを歓迎しました。国民はこれをけっして押しつけとは見なしませんでした。国民は新憲法を歓迎しました。

もともと、大日本帝国の戦争政策が、上からの押しつけだったのです。国民が心からそれに納得していたわけでは、決してありません。そういう悪しきものの復活を望まない国民が、この憲法が意に染まない勢力(圧倒的に巨大な財力と、権力と、情報力を有する勢力です)に対抗して、今日まで自主的に維持してきたのです。これが、誰からも押しつけられていない国民の意思なのです。

いやそれはGHQの洗脳の結果であって・・・などという向きもあるようですが、戦後65年間も続く洗脳などありはしません。大日本帝国の侵略は隠れもない歴史事実であって、覆すことなどできないのです。

いま憲法を変えたい理由は、ホンネの所では国民の自由と権利を制限するためです。平和主義を変質させるためです。だれのために。自分たち国政を壟断しようとしている権力者のために、です。そんなもくろみに、どうして我々が同意しなければならないことがあるでしょうか。

■押し付け論4 その論理矛盾

改憲派には押し付けを批判する資格などありません。憲法が押し付けられたと言う論者は、他方で奇妙に矛盾したことをいっているからです。日本は韓国を植民地にしたが、これは押し付けではないと言うのです。韓国の同意を得て、条約をむすんで、合法的に併合したのだから、押しつけではないと。

無茶を言ってはいけません。そのとき、日本は韓国の軍隊を解散させ、外交権を奪い、韓国を軍事的に占領していたのです。韓国を手も足も出ない状態に追い込んでおいて、相手がいやがることを強制しておきながら、「押しつけではない」と、あつかましくも開き直る。そのくせ、「憲法は押し付けられた」と泣き言をいう。その理由は、「連合軍に占領されていたからだ」、「自主権をうばわれていたではないか」というものです。

それならば日本が韓国を併合したときの状況と同じではありませんか。いえ、新憲法は政府が提案し、議会で審議し、天皇が発布したのです。韓国併合条約は国王の署名がなく、批准もされていません。憲法制定が押しつけで不当だったと言うなら、韓国併合条約はもっと押しつけで不当だつたとしなければならないはずです。

大日本帝国は滅んで「国体」は変わったけれど、政府と議会と天皇は残りました。韓国には何も残りませんでした。皇帝は退位させられ、国をつぶされたのです。韓国人は祖国をうばわれたのです。だれがそんな仕打ちを喜んで受け入れるというのですか。強制的な日韓併合条約を正当化する者に、憲法押し付けを批判する資格など、ありはしません。

韓国併合の正当化は、過去の軍事行動を正当化・合理化するため。憲法押し付け論は、未来の軍事行動を正当化・合理化するため。改憲派の主張は矛盾していて論理的には破綻しているのですが、軍事行動の正当化、合理化という目的だけは一貫しています。こんな論理の横行は、絶対に許せません。

■憲法は現実ばなれしているのか

改憲派は言います。
「制定されて60年以上、一度も改正されていないのは、世界中で日本国憲法だけだ。」
「憲法といえども時代にあわせないと、現実ばなれしてしまう」

憲法と一口に言っても、そのあり方はさまざまです。ドイツのように頻繁に憲法を変える国があります。そういう国の憲法は、中身が細かく作ってあります。日本なら基本法で定めてあるようなことを、憲法に書き込んでいます。

規定がこまかいほど、たびたび修正しないといけなくなります。日本では、一般法なら毎年のように変わっています。基本法も、教育基本法が変えられてしまったし、民法、刑法も変わりました。見方を変えれば、ドイツなら憲法改正の手続きが必要なほどの変革が、日本では国会の採択だけで、いとも簡単に行われていることになります。

本当に国の根幹に関わることだけを決めてあるのが日本の憲法なのです。だから、そう気楽に変えなくてもよいし、簡単に変えてはならないのです。憲法が現実ばなれしているという理屈ほど憲法をバカにした議論はありません。

では、日本国憲法の条項はすべて実現しているのか。国民の基本的人権も、議会主義政治も、憲法の理想からはなはだしくかけ離れているではありませんか。前文冒頭の「日本国民は正当に選挙された国会に於ける代表者を通じて行動し」というのだって怪しいものです。正当な選挙なんでしょうかねえ、いまの選挙は。

憲法は現実ばなれしているものなのです。憲法前文にあるではないですか。「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」憲法はいまだ実現されていない「崇高な理想と目的」を掲げているのです。だから現時点では現実ばなれしているのが当然なのです。いまは理想だが、将来はそれを現実にしよう、そのために努力することを誓おう、これが憲法の呼びかけなのです。

この何が間違っていようか。むしろ憲法をしっかりと擁護し、その指し示すところの高みを目指して努力しようじゃありませんか。憲法は素晴らしい。だからこそ、このすばらしい憲法を擁する日本の独立は大切であり、自衛隊の抑止力が必要とされているのです。

■道具扱いされている自衛官の生命

憲法と自衛隊。
この2つについて、自民党政府の態度に、違和感を覚えていました。タテマエでは、どちらも大切だというのです。しかし現実には、どこかよそよそしい態度なのです。

憲法については言うまでもないでしょう。憲法記念日は祝日ですが、政府主催の行事なんかまったくない。なにせ政権党の立党の目的が「憲法改正」ですからね。これでは憲法を大切にするはずがありません。

自衛隊は違うだろう、大切にされているだろうと言われるかも知れませんが、なかなかどうして。自民党政府にとって自衛官は、ただの道具でした(非武装論政党にとっては道具ですらなかった)。海外派兵の実績づくりのため、陸上自衛隊は機関銃一丁でモザンビークに送られました。武装勢力は対戦車ロケットや大砲までもっていたのに。自衛隊は危険な仕事が当たり前といっても、あまりに無茶な、むごい仕打ちでした。

湾岸戦争で一台もやられなかった、世界一頑丈なアメリカのM1戦車がIED(仕掛け爆弾)で破壊されているイラクに、ほとんど防備なく派遣されました。有志連合の一員ということで、アメリカの顔を立てるという、ただそれだけの目的のために、自衛官の命を差し出したのです。

装甲のない高機動車が主力の派遣部隊が一度もIEDの被害に遭わなかったのは、憲法第9条の下の自衛隊として、治安活動に関わらず、地元住民と平和的に交流した現地部隊の努力のたまものであって、まったく奇跡のようなものでした。

自衛隊輸送部隊43名が危険なゴラン高原でいまも黙々と任務を遂行中ですが、外遊した政府首脳が立ち寄って激励した話など、聞いたことがありません。行かせっぱなしです。

武器を使うのは自己責任、民間人が危険にさらされていても助けてはならないという、誇り高き武人にとっては納得しがたい命令が下っています。実に不合理なこれらの決定は、自衛隊を道具として使いたいが、責任は取りたくない政治家の自己保身に由来します。

ここでちょっと余談です。

イラク派遣部隊はろくな給水活動ができなかったとバカにされますが、自衛隊にはもともと自活用の浄水能力しかないのです。それなのに能力以上の任務を与えたのは政府であって、やらせてほしいと自衛隊が頼んだわけではありません。なのに、なんで自衛隊が悪く言われなくてはならないのか。行きたくもないのに危ない所に行かされて、それで文句言われて、ほんと、割に合わないことです。

■感謝されない憲法。報われない自衛隊

自衛隊は命令に従うしかない実力部隊です。自衛隊を動かすのは政治の側です。命令するのは政治家なのです。そしてその政治家は自衛官の生命など、虫けらぐらいにしか考えていない。それでいて、犠牲者が出ればそれをまた英雄として持ち上げて、憲法改悪の道具にするでしょう。

無茶な命令を黙々とこなし、報われることもなく、大切にもされず、平和主義者からは目の敵にされ、それでも自衛官は働いています。自分たちを死地に送る者たちの安全のために。自分たちを非難する人たちが侵略の被害に遭わないように。それが法律で定められた自分の任務だからです。

憲法もそうです。戦後65年間、一度も大規模な争乱に巻き込まれることも、自ら参加することもなくやってこられたのは、憲法と自衛隊があったからです。それなのに政権与党からは欠陥品だとけなされ、記念日に祝賀会ひとつも開いてもらえず、改憲論者からは目の敵にされ、それでも憲法は平和と人権を守って機能しています。

憲法がある今でさえ、航空自衛隊はNATO輸送部隊として、実質的に参戦しました。改憲すれば、たちまち自衛隊はアメリカ軍の弾よけにされてしまうのが目に見えています。改憲の旗を振る政治家や財界は、自衛官が無駄に戦死しようと、知ったことではないのでしょう。国民がどんな目にあおうと、自分たちに危険が及ばなければそれでいいのでしょう。むしろ軍事費を湯水のように使えば、自分たちの利益になります。

そんな連中の屁理屈にだまされてしまえば、いの一番に危険にさらされるのが自衛官です。最初の戦死者は、祖国防衛の戦いではなく、どこだか知らないアメリカ軍の戦場で生じることでしょう。だから自衛官こそが、最も憲法を大切に護らなくてはならない。これが私の考えです。

■好戦的文民に気を付けよう

自衛隊の中に国家主義的思想が台頭する事態は憂慮すべきことです。そういうものの台頭に、私たちは常に目を光らせておかなければなりません。田母神氏の論文とも言えない駄文をきっかけに、文民統制について騒がれたことは記憶に新しいと思います。

どなたもすでにご存じでしょうが、文民統制(シビリアンコントロール)は、平和主義を直接的に保障するものではありません。軍を文民のコントロール下においておけば、安心でしょうか。軍人より文民政治家が平和的で理性的ならば、そうかもしれません。しかし軍人より戦争が好きで暴走する政治家は、いくらでもいます。イラク戦争はまさにそれで、しぶる軍の尻をたたいて戦争に踏み切らせたのは、ネオコン政治家たちでした。ヒトラーだって、軍籍を持っていませんでした。

軍人=好戦的
文民=平和的
こんな等式は成立しないのです。

文民統制は、軍の反乱や暴走を防ぐシステムです。文民の意思を離れて軍が行動するのを、食い止めるのが目的です。文民の暴走を統制するシステムではありません。

文民統制が効いている国では、戦争を始めるのは必ず文民(政治家)です。最高司令官たる大統領や総理大臣が出動命令を下せば、軍(自衛隊)は直ちに出動しなければなりません。どんなに馬鹿馬鹿しい命令でも、文民統制のもとではその命令に絶対服従するのが制服組の使命です。政治家が大国意識を吹かせて調子にのり、威嚇外交や挑発外交を繰り返したことが原因で、戦争を誘発してしまう場合もないとは言えません。

ただ、政治家を選ぶのは主権者たる国民ですから、有権者がしっかりしていれば政治家の首をすげかえて、国の誤りを正すことができます。最高のシビリアン・コントロールは国民による統制です。有権者がピースマインドをなくしてしまえば戦争を防ぐ機能は失われます。心しなければいけませんね。

■自衛官にも知る権利を

ところで自衛官も有権者です。命令に従う義務はありますが、その命令に疑問を抱く内心の自由はあるのだし、命令を下す政治家を選挙で落とす権利もあるのです。その権利が有効に保障されていなければ民主主義は不完全です。自衛官にも選択の自由はあるのです。

選択の権利は、情報統制のない、自由な言論が保障された社会で、はじめて有効に機能するでしょう。自衛官にもあらゆる情報が開かれていなければ、主権者として、また有権者として、正しく権利行使できないことになります。

何が言いたいかというと、自衛官にも反戦ビラを読む権利ぐらいあると言いたいのです。自衛隊官舎へのビラ入れくらいで逮捕されるような社会では、言論の自由など絵に書いた餅でしかありません。ビラ入れが誰の人権をどの程度侵害したから、何ヵ月も勾留されなければならないというのでしょう。

イラクに行かせたくないというのは国民の声なのですから、自衛官に聞いてほしいし、どうしても読みたくなければ捨てればよいだけのこと。考えれば考えるほど、立川の自衛隊官舎にビラを入れた活動家に有罪判決を下した最高裁はおかしい。

以前、姫路市の労音がイベントの宣伝をしているとき、商店街アーケードの柱にイベント告知旗をくくりつけていたという理由で、会員が逮捕される事件がありました。軽犯罪法違反なのだそうです。しかしじつは労音が日頃から反戦運動をしているのが理由だというのは、誰にでもわかりました。

駅前で拡声器を使って集会の案内をしていると、たちまち警察が飛んできます。しかし右翼が大音量で軍歌を鳴らし、交通を遮断するような運転をしていても、一向に野放しです。

姫路市は憲法を守る集会を後援しませんが、「南京の真実」は後援しました。この国が右翼に甘く、左翼に厳しいのは、誰でも知っています。こんな状態で最高裁までが反戦ビラの自由抑制を容認するようでは、この国の将来が本当に心配です。

■自衛隊を監視することと、自衛官を非難することの区別を

警察官が右翼を取り締まらず、左翼に厳しかったり、自衛隊が市民運動を監視しているのは由々しきことですから、しっかりと批判して改めさせなければならないと思います。警察が反国民的存在になれば治安確保がおろそかになるだろうし、自衛隊が本来あるべき安全保障の役割を取り違えて反国民的存在になれば、それはこの国と国民の不幸です。

ですから、自衛隊を監視するのはいいのですが、それは自衛官に理不尽な非難を浴びせることと違うので、区別してほしいと思います。

一昨年、埼玉県知事が新人職員への訓示の中で、「自衛官は人殺しの練習をしている」とか、「警察官は人を痛めつける練習をしている」としたうえで、県庁職員は「そういう類」と違って、多くの人に喜んでもらえる仕事だ、と述べたと報道されました。

知事本人は後に、「殺傷」といえば良かったが言い方が悪かったと釈明したそうです。自衛隊や警察の仕事が「殺傷または破壊の訓練」を含むのは事実です。しかしそれは、やみくもに人を殺傷したり物を壊したりする犯罪行為とは、本質においてまったく異なるものです。自衛官や警察官の仕事も県庁の仕事と同様、公共の仕事であるし、「多くの人に喜んでもらえる仕事」のはずです。

自衛隊を好きかどうかは個人の自由です。知事個人が自衛隊を嫌いなのは、仕方のないことです。しかし公の場で自衛官を人殺し呼ばわりして、それが平和的立場をアピールすることだと思っているなら、それは勘違いではないでしょうか。

「そういう幼稚な批判をするのが平和主義者だ」
こんな批判を真に受ける自衛官がいないとは限りません。そういう思い違いで自衛官が護憲的立場から遠ざかってしまうのは、まったく残念であるとしか言いようがありません。

■国家は人を殺す権利があるのか

国家に人を殺す権利があるのかと問われれば、そんな権利はないと答えたいです。自国民を殺す権利もないし、他国民を殺す権利もありません。それは日本だけではなくて、どの国もそうです。私たちに他国民の基本的人権を奪ったり、生命を奪う権利はないはずです。他国の国家権力が日本国民の基本的人権を奪ったり、生命を奪う権利も、ないはずです。ですが、そう考えてくれない国もあります。

自国民を殺す権利はないとして死刑制度を廃止している国が、平気な顔で他国に軍隊を送り込んで他国民を殺しています。死刑廃止国なのに海外派兵したり、内戦したり、殺してもよいとされる敵をもっている国はたくさんあります。オーストラリア、イギリス、カナダ、フランス、アゼルバイジャン、ボスニア・ヘルツェゴビナ、カンボジア、クロアチア、キプロス、チェコ、グルジア・・・うんざりするほどあります。

■戦争を合理化する論理

このタブル・スタンダードはどうしたことでしょうか。犯罪者を殺してはいけないというのに、他国民なら殺してもよいというこの二重基準を説明できる論理は、ひとつです。

「犯罪者が国家の存立を揺るがすことはなかろうが、敵は国家の存立を脅かしている。」

国家は自国民を保護する義務がある。そのためには国家が存続せねばならぬ。国家の存続を脅かすほどの敵があるとすればその力は強大なものであり、平和的に取り締まることができないに違いない。そこでやむを得ず、我が存立を脅かせば生命の危険という究極の代償を支払う必要があることを示して、わが国への侵害を諦めさせるほかない。こういう論理です。

刑罰を含めて、国家の権利行使としての殺人は認めないが、緊急避難的な殺人を容認することで我が方に対する侵略の決断を抑止し、結果的に殺人の機会を極小化する。私は、これまで述べてきたとおり、やむを得ずこの論理を認めるものです。そしてこの論理しか認めません。

自国の生存のための緊急避難的な武力行使だけが、憲法の許す範囲です。自国の生存のためであっても、政策選択としての敵国侵攻は認めません。まして自国の生存が脅かされてもいないのに他国に侵攻するなど、もってのほかです。

■国家とはいったいなんなのか

しかし、ところで、国家とは何でしょう。領土と国民を持つ統一権力だというのが、一応の定義です。けれども、史上の国家にはこの条件を欠いたものが少なくありません。

典型的なのが、自由フランス政府です。領土も国民もなくて、軍隊を持った政治組織でしかありませんでした。ポルポト時代のヘン・サムリン政権もそんなものです。どちらも外部からの支援がなければ存続し得ない、いびつな国家でした。

ときには亡命政府というのがあって、その政府は軍隊すら持ちません。しかしその政府にとってみれば、たかが5人ほどのボディガードであっても、それが軍隊なのです。

では外皮を削ぎ落としてみれば、国家とは「暴力装置を持った政治集団」にすぎないのでしょうか。

いえ、それどころか。ときには軍隊が政府をクーデターで打倒する場合もあり、そのとき彼らは自らを国家と名乗ります。軍は国家を守ると言いますが、その国家とは究極的には、軍隊(=暴力)それ自身なのです。だから自分自身を守るために国民を見捨てることも、珍しくないのです。

その背信行為は、つぎのような論理で説明されます。いまは一時的に国民を保護できないが、軍さえ生き残っていれば捲土重来を期すことができるし、そうすれば元のように国民を保護することができる。しかし軍がなくなってしまえば、国民は永遠に敵のくびきのもとで生きねばならない・・・。

■矛から生まれた国 国家の本源的暴力性

古事記・日本書紀には、国土生成神話があります。神が矛を海に差し入れてかき混ぜると、潮が固まって国土となったというのです。矛という武器を神聖視するのは、その神話を形成した勢力が、己の存在と権威の本源が 矛に由来していることを自覚していたからでしょう。つまり「矛から国が生まれた」事実の神話的表現なのです。「鉄砲から国が生まれる」という毛沢東の思想と同じです。

いずれの国も、その初源には暴力がありました。アメリカの独立も、明治維新も、ロシア革命もです。これが国家の本質であり、民主主義国といえども例外ではありません。国家制度の下で生きる限り、この宿命から逃れることはできません。

逃れられないのであれば、共存するしかないでしょう。凶器が凶器であることから目を逸らさずにしっかりとみつめ、共存するしかないのです。

■誇り高い主権者と、その頼もしい仲間である自衛隊

私は自衛隊で「兵は凶器である」と教わりました。だからシビリアンコントロールに従わなければならないと。

自衛隊がシビリアンコントロールに服する義務に忠実であろうとしても、シビル(平服組=官僚・政治家)が好戦的であっては、なんにもならないと既に書きました。

シビルをコントロールするのは国民です。いえ、国民こそが本来的な意味でのシビル(=市民)なのです。

ですから自衛隊が「兵は凶器である」という自覚を持ち、国民に服従する組織であるためには、国民自身が主権者として高い自覚をもたねばなりません。市民がその自覚を失ったとき、自衛隊は国民に敵対的な存在になりえるでしょう。このことはあまたの歴史が悲劇的に証明しています。軍とはじつに危険な存在です。

こんな危険な集団に私たちが自分の生存を預けるのは、じつに背理と言わざるを得ません。しかし権益を巡って相争う世界にあって自らの生存を守ろうとすれば、この背理を飲み込むしかありません。そして軍の本来的な危険性を、除去すべく努めるしかありません。

そのためには、軍の自立的な運動を不可能にしたり、自己肥大化を抑制したりというシステムを構築し、これを強固に守って軍を規制する必要があります。法的にも、組織構造的にも、社会的にも、個人の意識のレベルでも、常に軍に対する警戒が必要です。軍を反社会的あるいは非社会的な存在にしてはなりません。ですから、矛盾したことを言うようですが、軍を市民社会と親和的な存在にして、軍の構成員を市民社会に包含することで、軍が市民社会と敵対関係に陥らないようにしなければならないと考えます。

これを日本の場合でいえば、つぎのようになります。

自衛隊という組織が本来的に危険なものであるという認識を市民と自衛官が共有する。自衛官は市民社会の一員として、市民社会の価値観を共有する。自衛官は自分の任務が国家防衛を通じて「自由で民主主義的な市民社会」という価値観を守ることだという自覚を持つ。つづめていえば、自衛隊の民主化です。

上意下達社会の自衛隊を民主化するには、市民の応援が欠かせません。その市民が非民主的な社会を受容していては、自衛隊の改革などおぼつかないことです。ですから、私たち一人一人の国民が自分の主権者意識をしっかりと持ち、非民主的な社会の改革者とならねばならないと思います。不公正な既得権を守護する権力と対峙できる存在とならねばなりません。また一人一人が互いの権利を大切にする、個人になりましょう。そうして国民が民主主義をしっかりと保てば、自衛隊はその社会を守る頼もしい仲間として成長してくれることでしょう。

社会が自衛隊を疎外すれば、自衛隊は自分の生存のために市民を見捨てるような「政府軍」になるかも知れませんが、自衛隊がデモクラシーの価値観を共有する市民社会の一員であり、自衛官もまた市民それ自身であれば、それは「市民軍」ですから、自分自身を見捨てることはないと期待できます。

いつかそんな自衛隊になればいいなあと、これが私の護憲的安全保障論の結論です。