憲法と自衛隊(1)憲法第9条を読む

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■憲法第9条1項

自衛隊はその装備から評価すれば、いまやアジアで最も精強な部隊といえます。しかしもっぱら守りに徹して、攻めていかない戦略をとっており、これを専守防衛と名付けています。この戦略を肯定すれば、自衛隊は小規模かつ精強な組織であることが望ましい。しかし護憲論をとなえる多くの人が、自衛隊が違憲の存在だといいます。

私は護憲の立場にたちますが、自衛隊は合憲だと考えています。憲法第9条は自衛権を否定していません。これから私がそう考える理由を述べ、その後、なぜ憲法を変えてはならないかを述べようと思います。

■国防は政府の義務である

憲法第9条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

もしも9条が自衛権を否定しているとすれば、外国から侵略されても、政府は抵抗してはならないことになります。国は国民の生命や権利や財産を守ることを国民から負託されているのですが、外国の侵略があっても抵抗できなければ、国家主権を奪われてしまいます。

国家主権を奪われると、国民の生命や権利や財産(基本的人権と言い換えてもよいでしょう)を守るという国民の負託に応えられなくなります。ですから国がこの義務を、自分からすすんで放棄することは許されません。外国の侵略から国民を守ることは、国の本源的義務なのです。

基本的人権の擁護を国に義務付けた憲法が、もう一方で基本的人権の擁護を放棄するような条項をおけるはずがありません。よって憲法第9条が国防を否定しているという解釈は、原理的に間違っているのです。

仮に憲法第9条が自衛権を否定しているとしましょう。すると憲法の全条項のうち9条ひとつを守ることで、他の条項すべてが外国に蹂躙されてしまうかも知れない。

憲法第9条が国防を否定しているとすると、憲法第9条は他のすべての条項と対立関係にあることになってしまうのです。これは大いなる背理です。憲法体系は、そもそも無矛盾の体系としてつくられています。矛盾は、原理的にあり得ないのです。

もしも、とある解釈で憲法内部に矛盾が存在しているように見えるのならば、間違っているのは憲法ではなくその解釈なのです。だから9条が自衛権を否定しているという解釈は、誤っていると言わざるをえないのです。この立場にたったときのみ、憲法第9条を正しく解釈できることを、以下に示そうと思います。

■「国権の発動たる戦争」とは何か

【憲法第9条1項】
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第1項が否定しているのはふたつです。
1.国権の発動たる戦争
2.武力による威嚇または武力行使

こういうものを、「国際紛争を解決する手段」として使ってはならないというのです。ではこれがそれぞれ何を意味しているのか、考えましょう。

「国権の発動たる戦争」とはなんでしょうか。「戦争」一般ではなく、あえて「国権の発動たる戦争」と条件づけられています。これには意味があるはずです。

そもそも「国権」とはなんでしょうか。国権とは「国家権力」のことではありません。これを「国家権力の発動たる戦争」だとして、政府軍の抵抗は許されないが国民の民間抵抗運動なら許されると解釈し、義勇兵によるレジスタンスで国を守ればよいとする論者もありました。しかしそれは誤読です。

日本語では不文明ですが、英文では「a sovereign right of the naton」とあり、国家主権のことだとわかります。「right」とは権利です。

憲法は「権利行使としての戦争」を禁じているのです。

これはケロッグ・ブリアン条約(不戦条約)でいう 「国家の政策の手段としての戦争」を意味しています。同条約第1条はつぎのとおりです。

<ケロッグ・ブリアン条約 第1条>
締約国は、国際紛争解決のため、戦争に訴えないこととし、かつ、その相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言する。
*http://mblog.excite.co.jp/user/souansyuu/entry/detail/?id=216749&guid=ON&_s=a6d6f9255148a8e8ae848cd063639799

同条約は数年で死文化してしまいましたが、その反省を基にして、現在は国連憲章に受け継がれています。

<国連憲章 第2条>
3. すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない。
4. すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。

憲法第9条1項とほとんど同じ内容であることがわかります。

日本国憲法が「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することや、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することを、改憲派は無責任だとかお花畑だといいます。しかしその規定は無責任ではありません。国連憲章に誠実に準拠しているのです。その条文を無責任だ、お花畑だと言う意見こそが、国連憲章を否定して国際安全保障を危うくする無責任な意見です。

しかし世界広しといえども、国連憲章が、一般的かつ全面的に各国に戦争放棄の義務を負わせたと解釈する人はいません。条約が放棄を義務づけたのは、あくまでも「国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争」、すなわち「国家主権の発動たる戦争」に限ります。防衛戦争の権利は、否定していないのです。

では「国家主権の発動たる戦争」とは何を意味するのでしょうか。

権利はオプションであり、能動的なものです。「政策ノ手段トシテノ」とは、そういうことを意味しています。

ケロッグ・ブリアン条約が締結されるまで、征服戦争は国家固有の権利だと考えられていました。国家は、資源が足りないなどの国内事情を以て、その解決のために外国に攻め入る選択が許されていた、少なくともそれを止める権限は誰にもないとされていたのです。そういう考えはおかしいという批判は強くありましたが、その認識が国際的な合意として成立したのは、この条約が初めてです。

ところで自衛戦争は他国から強制された事態のもとにおける受動的対応で、いわば緊急避難です。国家が政策手段として能動的に起こす戦争ではありません。国民の生命・財産を守ることを負託されている政府にとって、自衛戦争は憲法上の義務の履行なのです。オプションとしての権利行使ではないのです。ですから、自衛戦争は国権の発動たる戦争とは言えないのです。

■「国際紛争解決の手段としての武力行使」とはなにか

つぎに「国際紛争解決の手段としての武力行使」。

国権の発動たる戦争とまで至らずとも、国際紛争を解決するために、武力で威嚇したり、武力を使ってはならないというのです。

これは歴史の教訓にもとづいています。戦前に日本は満州事変や日支事変を「これは戦争ではない」と説明して戦いました。このような「戦争といわずに行う戦争」をも禁じて、いわば抜け道をふさいだのです。これまで多くの戦争が「自衛」の名目で戦われましたが、「国際紛争解決の手段としての武力行使」禁止は、自衛の名による侵略の歯止めにもなっています。それは、「国際紛争解決の手段」という言葉で示されています。

「国際紛争」と「それを解決する」とはどういう意味でしょうか。

■「国際紛争」と「それを解決する」の意味

国際紛争とは国家間の対立があらわになった状態のことです。それが外交で解決できればいいけれど、一方あるいは双方が、自国の意思を相手に強制し、もしくは強制されまいとして武力を行使すれば、武力紛争となります。武力による解決というのは、相手を武力で屈服させて、その意思を消滅あるいは撤回させることです。

ベトナム戦争を例に、これを説明しましょう。

北ベトナムの国家意思は、ベトナム統一という政策でした。アメリカの国家意思は、ベトナム分裂状態を維持することでした。双方の国家意思がぶつかったのが、ベトナム戦争です。アメリカが北ベトナムを空爆したのは、北ベトナムの国家意思を武力で消滅あるいは撤回させるためでした。北ベトナムが空爆に屈服してベトナム統一をあきらめれば、国際紛争が武力で解決したことになります。

しかし北ベトナムは抵抗戦争を選びました。北ベトナムは果敢に抵抗し、アメリカの意思に屈服しない意志を表しました。ただし国を守っているだけでは、アメリカの国家意思をくじくことができません。でも北ベトナムは自分を守るのに精一杯で、アメリカ本国に攻め込んで自分の意思を強制する武力を持っていません。

アメリカの国家意思を武力で消滅あるいは撤回させる力がない北ベトナムが国際紛争を解決するには、国連外交に訴えたり、世界世論にアメリカの非道性を訴えるなど、非武力的手段に期待するしかありませんでした。北ベトナムの戦略は成功しました。

アメリカが北爆を停止したのは北ベトナムの武力に屈したからではありません。北ベトナムの国家意思を武力で消滅あるいは撤回させる力がなく、平和世論に抗する道義的理由もないことを悟って、戦いから下りたのです。北ベトナムは平和的手段で武力干渉を挫折させたわけです。しかし北ベトナムの頑強な軍事的抵抗がなければ、国際世論の勝利もなく、アメリカの意思撤回もなかったに違いありません。

自衛隊に許されているのは、こういう戦争です。日本が仮に侵略されれば、やはり自衛隊は北ベトナム軍のように頑強に抵抗し、その間に政府が国際世論に訴えるなど外交力で相手の意思を挫折させるということになろうかと思います。日米安保条約が発動されれば、米軍が相手国の策源地を攻撃することもあるでしょう。(なるべくならこういうオプションは選択したくないものです。)

■国際紛争の武力的解決とはどういうものか

北ベトナムはその後、南ベトナムを武力で打倒して統一を達成しました。南北ベトナム間の国際紛争を武力で解決したことになります。憲法は、こういう行為を禁じています。

ベトナムは民族統一のためにサイゴンに攻め入り、アメリカは自衛のためと称してイラクに攻めこみました。このように、武力で国際紛争を解決しようとすれば、必ず相手国の軍事力とその策源地(生産とか補給の根拠地)を攻撃して破砕しなければなりません。

憲法は武力で国際紛争を解決するのを禁じています。ですから、たとえ自衛目的であっても、自衛隊は相手国に侵攻することが許されていません。あくまでも防衛一辺倒、これが専守防衛戦略です。そもそも自衛隊には外征能力がありません。だから外国に日本の国家意思を強制する力がありません。しかし抵抗能力としては、相当のものです。自国を防衛するだけなら、憲法を変える必要はどこにもありません。必要もないのに、今あえて改憲を唱えるのは、自国防衛のためではなく、軍事力行使のしばりをなくすためだと私は見ています。

■自衛隊の任務と国民の安全の関係

ここで少し自衛隊の任務について語ります。上に、国には国民の生命・人権・財産を守る義務があると書きましたが、これは国の義務であって自衛隊に課せられた義務ではありません。自衛隊の任務は、自衛隊法第3条に規定されています。

<自衛隊法第3条>
自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。

自衛隊が守るのは、国です。国民ではありません。国民の生命・人権・財産は、自衛隊が戦うことで国の存立が守られ、そのことで間接的・反射的に守られる関係にあります。ここが同じ実力組織でも警察とちがうところで、国民が気を付けなければならないところでもあります。

<参考>警察法 第2条(警察の責務)
1. 警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の子防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもってその責務とする。
2. 警察の活動は、厳格に前項の責務の範囲に限られるべきものであって、その責務の遂行に当つては、不偏不党且つ公平中正を旨とし、いやしくも日本国憲法の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用することがあってはならない。

■保有が禁じられている「陸海空軍その他の戦力」とは何か

憲法第9条2項
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

憲法第9条第1項が自衛権を否定していないとしても、第2項で武装を完全否定しているという解釈が有力です。しかも国の交戦権まで否定している。だから自衛権はあっても憲法は非武力的手段しか認めていないとの解釈があり、改憲派も1項はそのままでよいとしつつ、第2項を変えようと提案しています。

しかし「前項の目的を達するため」とあるのを無視してはいけません。第1項と第2項はリンクしているのです。ですから第2項を解釈するときは、自衛以外の武力行使を禁じた第1項の目的に沿って読む必要があります。

普通に軍隊という場合は、自国を守るために外国へ侵攻することもある実力組織をいいます。陸海空軍以外にも、海兵隊や航空宇宙軍という侵攻部隊がありますし、ときには義勇軍を組織して外国に侵攻する場合もあります。憲法は、「陸海空軍その他の戦力」と既定して、どんな名目の組織であっても、外国に侵攻することを許していません。そういう行動を許していないだけでなく、そんな組織の存在を許さないと言うのです。

(現在、自衛隊は海外任務も負っていますが、その装備・補給能力を考慮すれば、まともな戦闘に耐えられる部隊ではありませんので、憲法違反ギリギリのところに達していると思われます。危ないところへきています。)

■自衛隊は一般行政機関である

いま述べた内容を前提にして、自衛隊が「国際紛争解決の手段としての陸海空軍その他の戦力」にあたるかどうかを考えます。通常、軍隊は一般行政機関と区別して扱われます。武装警察や国境警備隊は、外国との交戦をも任務としていても、軍隊とされていません。

軍と警察のちがいは、どんな法律によって規律されているかの違いです。警察などは一般法と行政法の下におかれています。つまり司法権のもとに規律されているのです。これに対し、軍は一般法と行政法以外に、軍法という独自の法律を持っています。この法律を運用するのは司法裁判所ではなく、軍法会議という軍隊司法機関です。軍法会議は軍律裁判所ともいいます。裁判所と名付けられていても、軍事組織です。

あまり知られていませんが、軍法は軍隊内部にのみ効力をもつと思ったら間違いで、国民にも適用される条文を持っているのが普通です。ですから軍を持つ国は、司法権が二重になっています。

しかし自衛隊は軍法会議などの軍隊司法を持たず、憲兵もいません。すなわち自律的刑罰権をもたないのです。この点では、警察や海上保安庁と同じ、一般行政機関なのです。また憲法にその存在を規定されていない点でも、警察や消防組織、もっと言えば農林水産省や文科省などと同様の行政機関であると言えます。

だから軍隊かどうかといえば、外形的には軍隊ですが、法制的・実質的には軍隊でないと言えるでしょう。

■自衛隊が軍隊でないといえる理由

いま、法制的にだけではなく、実質的にも軍隊ではないと述べましたが、これは「国際紛争を武力で解決する手段」としての軍隊ではないと言う意味です。

軍法会議がなければどうしてそう言えるのか、それを説明します。簡単に言えば、軍法会議のない組織は、外征戦争に耐えられないからです。

国際紛争を武力で解決するには、相手国の策源地を攻撃して軍事力や生産力を破砕する必要があると前回書きました。それをする能力が、外征能力です。しかし自衛隊にはその装備がないばかりか、そういう任務が果たせる組織になっていないのです。

自国防衛にあたっては勇敢で精強な軍隊が、国境線を越えたとたんに弱兵の集団に変身してしまう例は、古今東西、数限りなく存在します。それはどうしてかと言えば、自国防衛は兵士の個人的動機と一致しているからです。祖国防衛は個人の利益と一致しているので、兵士の自発的意志で充分戦えるのです。自衛を目的としている限りは、過酷な軍律による強制は必要ないというのが、歴史の経験則から導き出される結論です。これは直感としても納得できることでしょう。

しかし外征戦争には兵士の個人的動機がないので、軍律による強制が不可欠なのです。軍律裁判所も憲兵ももたない自衛隊は、すなわち自国防衛にしか使えない戦力であって、これこそ憲法第9条1項の目的にふさわしい戦力と言えるでしょう。

それゆえ、自衛隊は憲法第9条2項の禁じる「陸海空軍隊その他の戦力」にはあてはまらないと言えるのです。

では軍法と軍法会議(軍律裁判所)さえなければ憲法第9条に違反しないのでしょうか。そんなことはありません。いま書いたのはあくまで一般原則です。その戦略、編成、装備・運用などさまざまな面で、自衛隊が脱法的存在にいたらぬよう、私たちはこの国の主権者として監視しなければなりません。

いまの自衛隊はどうかと問われれば、その一部は極めて違憲の疑いが濃いと言わざるを得ません。その具体的内容は多岐にわたるのでここで触れる余裕がないけれども、いずれまた機会があるごとに言及することになるでしょう。.

ともあれ以上で第2項の前半部について語ったことになります。

つぎは交戦権の否認について語ります。

■交戦権の否認とは何か

憲法第9条2項
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

交戦権とは、平たくいえば、「戦う権利」です。「戦時国際法により交戦国に認められる諸権利のこと」という定義もあります。

憲法はこれを認めないというのですが、それはもちろん「前項の目的を達するため」です。第一項にある「国際紛争を解決する手段」としての交戦権、これを認めないというのです。国際紛争を解決するための武力行使と、自衛のための武力行使の違いはすでに説明しました。

当然、自衛のための交戦権は否定されていないのです。

本来ならばこれで説明は終わりなのですが、終われない理由があります。自民党政府が、これまでとんでもない説明をしてきたからです。

■自民党政府のトンデモ説明

政府答弁では、憲法が否認している交戦権とは、つぎの事項です。

1.相手国兵力の殺傷及び破壊
2.相手国の領土の占領、そこにおける占領行政
3.中立国船舶の臨検、敵性船舶のだ捕等
(1981年4月14日、鈴木善幸総理の答弁書)

2は論外としても、1と3ができないのでは、戦えないではありませんか。これでは自衛権をもち、自衛戦力を保持していても、何にもなりません。政府は自衛隊に何をさせたかったのでしょうか。侵略軍が国土を踏みにじり、国民をなぶり殺しにしていても、自衛隊は指をくわえて見ていろと言うのでしょうか。

政府の解釈に従ったら、できるのはせいぜい警察官職務執行法の範囲で敵兵を「取り締まる」ことぐらいしかありませんが、軍隊を相手にそんなことができようとは思えません。これは不合理なので、政府はまたも変なことを言います。

「自衛のための武力行使は、交戦ではない。」
「自衛のための武力行使は交戦ではなく、自衛行動権の行使である。」

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では自衛行動権を行使する自衛隊は、交戦しないのだから「相手国兵力の殺傷及び破壊」などを行わないのでしょうか。

自衛行動と交戦のちがいを国会で質問されて、こう答弁しています。

「国際法の上から見れば、それはやはり普通の交戦国がやることとだいたい似たようなことをやる。」
「捕虜の取り扱いとか、市民に対する扱いとか、害敵手段の制約とか」については、「戦時国際法が適用される。」
(真田秀央・内閣法制局長官=1978年8月16日)

普通の交戦国がやることは、やるのです。戦時国際法も適用されるのです。戦時国際法とは、交戦時の国際法です。交戦するにあたって適用される戦時国際法が適用されるのに、交戦しているのではないというのが、政府の説明です。

国際法的には交戦だが、憲法的には交戦ではない。こんな説明に納得される読者はおられるでしょうか。言い方を変えただけじゃないのかと、どなたも思われるでしょう。これで国会を乗り切ったのだから、野党議員も何を考えていたのでしょう。

どうして政府はこんなコンニャク問答でごまかそうとするのか。なぜ、つぎのようにすっきりと言えないのでしょうか。

「憲法は国際紛争を解決するための交戦は否定している。」
「自衛のための交戦は否定してはいない。」

憲法を普通に読めばわかることなのに、政府がわざとひねくれた読み方をするのは、どうしてなのでしょうか。それは、事柄をややこしく混乱させることで、あたかも憲法に問題があるかのように装うためだと思います。

「こんなにくだらない屁理屈をこねなければ、国の独立も国民の安全も守れない憲法なのだ。」
「だから憲法は欠陥品なのだ。」
このように主張するためなのです。

こんな姑息極まりない改憲派の答弁と、自衛隊を何とか否定したい非武装中立論の国会議員のタッグによって、まるで憲法が欠陥品であるかのようなイメージが広まってしまいました。

改憲派は、まともに運用したら国も守れない憲法であるかのように言います。非武装中立論者は、自衛隊は憲法違反の組織であると主張することによって、自らの意図に反して、「違憲の存在をなくせもしない無力な憲法」というイメージを作り上げることに貢献してしまいました。おかげで自衛隊は恐れられたり嫌われたり、バカにされたりと、散々な目にあわされてきました。

私は入隊したとき、機会あるごとに「君たちは国防という崇高な任務に誇りを持て」と教育されましたが、国内がこんな環境ですから、その言葉が今ひとつ胸に落ちませんでした。ところがあるとき、一人の幹部の訓辞を聞いて、すとんと胸に落ちたのです。それは横須賀(少年工科学校の所在地)で反戦デモが行われるので、外出禁止が通告されたときのことであったと記憶しています。

その幹部はこう語りました。

「国民の中には自衛隊に反対し、その存在を認めない意見もある。しかし諸君はそういう意見を述べる国民をも、命を懸けて守るのが使命である。諸君の任務は、国民が我々を否定することもできる、自由な社会を防衛することである。ゆえに、我々の任務は重く、崇高なのである。」

自衛隊の任務とはこういうものであると、いまも私は信じています。

そしていま私は、自衛隊を否定する非武装中立論の方々の存在意義も、認めています。意見としては間違っていると思いますが、そのあくなき理想主義によって、改憲派と果敢にたたかって憲法を護ってきた業績を否定できないからです。

けれどもいずれ改憲派を完膚無きまでに滅ぼした暁には、その間違った意見を改めていただくべく尽力しようと思います(笑)。その日が早く来ればいいのですが、まだしばらくは到来しそうもありませんねえ。

■戦争はなぜ起きるのか 一つの要因

軍事アナリスト江畑謙介さんの言葉を借りれば、戦争は、常につぎのように説明されてきました。

「自分の国から見ればその正当性に何一つ疑問のない権利を、他の国や勢力が武力を持って奪おうとするか、ないしはこちらの正当な要求に武力をもって抵抗するため、やむを得ずこちらも武力を行使せざるを得ない」

日本にとって侵略と見える相手国の行為も、相手国から見れば侵略ではなく、正当な権利の行使あるいは回復なのです。日本から見ればまったく正当な自国利益であっても、相手国の立場でみれば不当な独占であり、権利の侵害なのです。日本が防衛行動だと信じていても、相手から見れば侵略ないしは不当な抵抗なのです。

どちらも正当な権利の行使あるいは権利の回復だと思っているから、交渉で直ちに解決できるものではありません。

■具体例で考える 尖閣諸島のこと

たとえば尖閣諸島はどうでしょう。

中国はそこが中国領だと言っています。大昔から澎湖列島の一部として釣魚台と名前をつけていたし、だいいちそこは中国の大陸棚にあるのだから、中国領に決まっていると言うのです。日本が尖閣諸島を領有している現実は、日本の我々からすれば当然のことですし、それが侵略だなどとは考えてもいません。しかし中国に言わせれば、自分の正統性に何の疑いもない領土を、日本に奪われた状態が続いていることになるのです。日本の実効支配は明らかな不当占拠であり、いまだ精算されていない侵略戦争のつづきなのです。

これを日本の側から見れば、もともと誰のものでもなかったそこを1895年に日本が国際法に則って領有したのだから、中国の言い分は受け入れられないし、中国は近年になって初めて自国領土だと言いだしたが、それまでは何も言っていなかったじゃないかということになります。このように日本は国際法ルールを主張の根拠にしています。

中国はそこが大陸棚だというのは人類以前から続いている事実であって国際法など持ち出すまでもないし、当然の自然的領域についていちいち中国領だと宣言しなければ他国のものになるという日本の理屈は帝国主義の論理だと言います。

歴史上の実績としてもそこで漁労を営んでいたのは中国人であって、仮に国際法を日本が援用しているのが事実であるにしても、中国のあずかり知らぬところで列強が勝手に作った大国有利のルールを利用しているだけで、中国はその通告さえ受けていなかったのだから、日本の言い分はまったく道理がないと言います。

これで分かるように、双方が正統性の根拠としているのは、国際法的根拠と自然地理的根拠というまったく違うカテゴリーです。これでは論理的に対話しても合意に至るはずがありません。

この認識の対立があるのに武力衝突に至らないのは、正当な権利の回復ができないほどに日本の武力が強いからだというのが中国の認識です。不当占拠されているから権利を回復したいのに、自衛隊がいるから手を出せないだけで、現状が不当な侵略的占拠であることは言うまでもなく、中国は日本側の領土主張を容認もしていないし合意もしていないのです。

これを日本の側からみれば、中国の不当な要求を遮断し、しかも武力奪還を未然に阻止しているということで、自衛隊の抑止力が発揮されていることになります。

■軍事力がなければどうなるのか─2つのケース

日本に軍事力がなければどうなるのか、それを示す例があります。

竹島は日韓両国が自国領土だと主張しています。詳しくは触れませんが、どちらにもそれなりに言い分があります。日本は韓国に不当占拠されているといい、韓国は正当な領土権の行使だと言っています。千島もそうです。日露どちらにも言い分があります。

この二つが実効支配されてしまったのは、日本の軍事力が崩壊している時期でした。日本の防衛力が健在であったなら、こんなことになっていなかったはずです。これらについて日本は権利回復したいのですが、相手国が軍事力で防衛しているからそれができません。

不当占拠されているけれど、いまさら武力で奪還することはできないというのが日本の認識であり、相手から見れば我が軍事力が日本の不当な要求を許さず、実効的に抑止力を発揮しているということになります。

■侵略とはどういうものか

ある平和論者は、どこの国がいきなり攻めてくるのか、そんな馬鹿なことがあるはずがないではないかと言いました。

どこの国も日本に手を出さないのは自衛隊が存在するからですが、それは一旦おきましょう。どこの国が日本を侵略してくるのか、などという問いは、戦争に至るプロセスを歴史から学んでいないから発することができるのです。

国家間の争いは、まず民間の対立関係からはじまります。たとえば、日本海の漁業権対立です。たとえば、外国に進出した企業と現地の対立です。初めは小さな対立でしかありませんが、どちらかが一方的に不当であることは稀で、どちらにも一理あるのが常です。

道理ある自国民の利益を護るのが政府の役割ですから、たとえば漁業権の対立なら、漁場における自国漁船の安全を守り、相手国漁船の不当な行動を抑制するために、警察力を行使するのが当然の行動です。双方とも、漁場を奪われまいとすれば、実力を持つしかありません。

A国という非武装国があり、そういう実力をもたないとしましょう。A国は簡単に漁場を奪われ、水産資源を外国から買わねばなりません。すると外国はA国の水産卸売市場へ乗り出します。そして必ず不公正な市場が自国漁民の利益を不当に奪っているとして、公正な市場ルールという名目で、自国側にのみ有利な取引を求めます。(こういう要求は不当であると見えるでしょうが、日本国内で大企業が下請けに強制している取引と同じ事で、大企業側はこれを不当だなどと考えていません。同じ事が外国との間で起こるだけです。大企業と同じく、相手は不当な要求だなどと考えないでしょう。)それで地元とトラブルになれば(必ずなります)、A国はわが国民の生命と安全を守る義務を果たしていないと言うでしょう。

A国は自分の国の漁民が正しいと思っていますから、相手の言い分をはねのけます。ここでようやく相手国からの軍隊の出番です。つぎに相手国は、トラブルを避けてより平和的に取引するための互恵的な提案だと言って、軍隊を背景に治外法権を要求し、租界を作らせろと言いはじめます。こうして戦争などしなくても、防衛力がなければ徐々に鳥の羽をむしるように主権を奪っていけるのです。

これは、かつての日本が近隣諸国に対して行ったことで、世界史的に見て何も珍しいことではありません。

自衛隊がなければ明日にでも外国の侵略を受けるのか、などという単純な論理で安全保障を語れるなどと思わないほうがよいと思います。

ところで国民が正統な権益を奪われまいとすれば、いかに相手が強力な軍隊であろうとも、ついには我慢できなくなって実力闘争にいたるのが歴史の必然です。組織された軍隊に非力な市民が立ち向かうのがどれほど困難と犠牲を伴うものか、ちょっとした歴史知識と想像力があればわかるはずです。そんな犠牲をはらわずにすむよう流血の対決を未然に防ぐ実力、それを抑止力と言い、これは軍事力にしか果たせないことです。

■外交力は抑止力を不要にするか

憲法は国家間対立を軍事力を用いないで外交など交渉で解決したり、国連の調停機能に期待することを求めているという主張があります。非武装中立の立場での安全保障策はそれしかないでしょう。

しかし、交渉するにしても軍事力の担保が不可欠であることを忘れてはなりません。交渉を成功させるには、合意が成立するまで何があっても武力衝突を回避しなければなりません。

最初に挙げた尖閣諸島の例なら、領土問題を相互に棚上げにしなければなりません。武力衝突して出血するのはお互いのためにならないから双方が控えようという言い分なら、現実としてその通りだし、お互い様だし、中国も飲めます。

しかし日本に軍事力がない状態で中国に尖閣諸島の領有権行使を控えろと要求するのは、それは中国からすれば、不当な日本の要求に対して一方的に譲歩せよと求められているのと同じことですから、飲めるはずがありません。

手を伸ばせば無抵抗で自分の正統な権利が回復できるのに、どうしてそれを控えなければならないのか、日本は虫の良いことを言うなと中国は言うでしょう。またそう言わないような政府なら、国民が愛想を尽かします。

お互い様にするには、日本も実力を持たなければならないのです。

以前、竹島問題で語り合っていたとき、一人の非武装論者が提案しました。お互いに譲り合って、資源権と漁業権を半分ずつにすればよいではないかと。平和主義者がお花畑だと言われるのは、こういうことを平気で言うからです。

竹島を実効支配しているのは韓国なのに、どうして半分も日本にくれてやろうと思うでしょうか。本来は百%自分のものだというのが韓国の考えなのに。半分ずつにしようなどと言う提案こそが、韓国の主権を半分奪い取ろうという強盗の論理なのです。

そういう関係性に無自覚なまま、主観的に平和を求めていることを根拠に自分の主張の正当性を信じていると、一つ間違えれば戦争に至るかも知れない。

国際関係とはそういうものだという認識に欠けているのが一部の非武装平和主義の方で、さらにもっと決定的に欠けているのが嫌韓論の方ではないでしょうか。

■軍事力の果たす2つの役割

軍事力は侵略の道具にもなりますが、抵抗の道具にもなります。しかしその区別さえ、上記のごとく判定が難しいのです。まして有用か無用かの二者択一の議論は、軍事力を語るには不適切です。要はその用い方であって、危険だからなくしてしまえという議論は乱暴です。

火は火事のもとだしコントロールを失うと極めて危険ですが、だからといって火をなくしてしまうと、寒さに耐えて生きることができなくなってしまいます。屋根が大きすぎると家が潰れてしまいますが、屋根がなければ天露をしのげません。

軍事力がない方がよいのは言うまでもありませんが、現実として力の外交が幅を利かせている以上、なくしてしまうのは危険です。それは裸の赤ん坊をライオンのおりに放り込むようなものです。

もしもベトナムに軍事力がなければ、今頃はまだフランスの植民地かも知れません。軍事力がないか、あっても極めて弱体だったがゆえに、クウェートはイラクに侵略され、ボスニアはセルビアに痛めつけられ、クルド人やチベット人は弾圧され、オセチアはグルジアに、パナマとグレナダはアメリカに攻め入られ、チリのアジェンデ政権は潰され、ニカラグアとエルサルバドルの革命は奪われ、フィリピンとベトナムは中国に領土領海を奪われたのです。

国内に二つ以上の対立勢力がある場合、力の均衡が破られれば悲惨な内戦となります。これはどちらが正しいかという判定とは無関係に、現実としてそうなるということであって、そうならないためには抑止力としての武力を持つしかないのです。

■平和憲法が防いだのは日本の侵略であって、外国の侵略ではない

平和憲法は日本が外国に攻め入ることを防いできました。しかし外国の侵略を防ぐ力はありません。外国が日本国憲法を守らねばならぬ道理はないからです。外国の侵略を防いできたのは、米軍と自衛隊の武力です。

日本はこれまでも韓国とソ連に漁場を奪われかけたし、中国に尖閣列島を奪われかけ、沖ノ鳥島を荒らされかけました。それらの国々が途中で引き下がったのは、無理押しして軍事衝突に至る危険を回避するためでした。

国際社会はけっしてお人好しではありません。けんかをしたくないのは誰しも同じですが、弱々しい奴は絡まれやすいのです。普段はおとなしくても、ケンカをふっかけたらキツい反撃が返ってきそうな相手には、乱暴者も手を出さないものです。つまり無抵抗主義は侵略を誘発し、専守防衛は戦争を未然に防ぐのです。

しかし軍隊は両面性を持っています。日本を防衛している在日米軍が、他方では侵略的機能を果たしているのが典型的な例です。日本から出撃した米軍によって外国が侵略被害に遭っているという事態を、私たちは自らの安全のため背に腹は代えられないと見過ごしてよいものかどうか。沖縄の米軍基地は、そういう問題でもあります。

けれどこれは集団的自衛権のカテゴリーに属し、いま語ろうとしているテーマと一部重なりつつも、同時に語っては論点が錯綜する危険をはらむ問題です。そこでこの問題は別の機会に譲り、いまは触れないこととします。

自衛隊にしても、日本の安全保障だけを考えればより強力な方がいいことになりますが、それは周辺諸国の警戒を呼び起こし、緊張を高めますから、かえって安全を危うくする場合もあり得ます。

しかし改憲論者は武力の持つこうした本質的危険性に目を閉ざしており、まるで火の危険性を知らないで無邪気に花火を振り回す子どもみたいなものです。そんな奴にマッチを持たせるわけにはいかないので、私は批判しているわけです。