「古代百済は日本の属国」というネトウヨ歴史学を斬る

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「朝鮮人がお遍路道にハングルのシールを貼って日本の聖地を汚した」などと、ネトウヨが吹き上がっている。日本仏教の発祥地が朝鮮(百済)であることも知らずに馬鹿な奴らだ……と言ったら、「百済は日本の属国だった」という、馬鹿にもうひとまわり馬鹿を掛けたようなネトウヨが絡んできた。

いつものように漫画みたいなネトウヨ歴史学をデバックしておく。

■「古代百済は日本の属国」というネトウヨ歴史学を斬る

ネトウヨ
ハングル文字ビラ大量貼り付けは、13番札所・大日寺の韓国人女住職、金昴先が犯人だった。コイツが人種差別云々と、大げさに騒いでいたのである。霊場会の名を無断で借用したのか、霊場会もグルなのか。四国四十八ヶ所霊場が泣いている。

どろ
仏教は人種・民族の差別を否定し、これを超越した世界思想だ。愚かしい民族憎悪・偏見に、泣きたいのは釈尊と霊場だろう。

ネトウヨ
確か大日寺のオツムテンテンな住職の嫁としてテョンが入り込んだと。で、住職が亡くなったか何かでテョンが継いだと聞いています。まぁ寺が背乗りされたアホな例と言う事でしょうか。

どろ
日本に仏教をもたらしたのが百済聖明王だと日本書紀に書いてあることも知らんのだろう

ネトウヨ
男組神戸支部長さん(注:泥さんのこと)よ、現在のチョンが百済聖明王と何の関係があるというの?韓国人や親韓派などは、頻繁に「朝鮮が日本に仏教を伝えた」と主張するが、実際には日本への仏教伝来について、朝鮮が果たした役割なんて無いに等しい。 それ以前に、そもそも百済は、日本の支配地(属領)だった。

どろ
根拠は?

ネトウヨ
4世紀頃(391年、倭が、海を越えて襲来し、百済や新羅を破って服属させてしまった「広開土王碑」)から7世紀(白村江の戦い)まで、朝鮮半島は九州などと同様に日本(倭国)の一部だった。

どろ
漢文読めないだろお前。「広開土王碑」にそんなこと書いてない。

ねとうよ
碑文には391年に倭(日本)が海を渡って百済・新羅などを臣民としたと読みとれる字や,倭軍と高句麗軍とが交戦した記載があった。
http://t.co/VsBHlGgWWr
現在では中国国内にあることが分かる。
*http://t.co/aNw3cRV4Sw

ねとうよ
広開土王碑拓本
http://t.co/ZEFzkFgM3Y
第I面から釈文(右上)を開いて見てください。私も漢文は読めないのですが、9行目の「倭以辛卯年来渡□海 破百殘 □東 □新羅以爲臣民」は、倭が攻めてきて(高句麗の朝貢国であった)百済と新羅を服属させたと解釈するのが一般的のようです。

どろ
さて、それでは答えよう。いつものことだが、ちゃんとした答えをするには140字では不足する。本当は本一冊ぐらいの分量がいるのだろうが、そんなこともできないので、なるべくはしょって最小限の証明にとどめておきたい。でも連ツイになってしまうよ。

好太王の碑文は欠字があって文章としては読めない。しかし確実にこうだといえる部分はある。「臣民」という言葉がそうだ。

こういった文を読む時に忘れてはならないのが、「大義名分」。高句麗の碑文に「臣民」とあれば、それは高句麗王の民に決まっている。

「臣民」は、「君主」の対応概念だ。天皇が「なんじ臣民」と言えば天皇の赤子のことだ。高句麗王が臣民というば高句麗王の民なのだ。

高句麗にとって倭国は「賊」であり「寇」であって、王がいてもそれは自称しているだけ、というのがその大義名分だ。高句麗としては倭王が王であることを、認めない。王でないものが臣を持っているはずがない。だから倭王の支配下にある民を「倭王の臣民」などと書くはずがないのだ。

事実、碑文には他国の民のことを「他国王の臣民」と書いている箇所などひとつもない。他国の民は「男女」「生口」などと書く。かつて高句麗の臣民であった民でも、今その大義名分が失われている場合は「旧属民」と表記している。古代にあって、大義名分表記はこれほど厳密なのだ。「倭王の臣民」なんて有り得ない。そういう視点で碑文を読んでみよう。

原文は
「倭以辛卯年来渡海破百済□□新羅以爲臣民」

意味は
「倭、辛卯年をもって来る。海を渡りて百済を破り新羅を□□。もって(好太王の)臣民となす」

以上だ。
「新羅を□□」は「新羅を救援」かも知れない。当時、新羅は高句麗の属国みたいにされていたから。

海を渡ったのは高句麗軍だ。それには前例がある。

かつて3世紀、朝鮮半島北部で自立した公孫氏を討つため、魏の将軍、司馬仲達は陸路から攻めるだけではなく、海を渡って公孫氏の背後に上陸作戦を実施、これを破った。高句麗軍も同じような戦法をとって奇襲をかけたのだろう。これにひきかえ、5世紀の倭国軍は半島南部を占領していたから、海を渡る必要はなかったんだ。

もう一つ証拠をあげておく。

4世紀から7世紀まで百済が日本の属国だったのなら、5世紀もそうだったはずだ。5世紀後半、倭国王「武」は南宋に使を送り、中国に服属する旨を明らかにして、自称している位を認めてくれと求めた。その「位」に意味がある。

自称したのは、長くて固い名称だが、
「開府儀同三司・使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七国諸軍事、安東大将軍、倭国王」

つぎにその意味を説明しよう。

「自治領である府を開設する権限を有し、儀礼は三司(大尉・司徒・司空)の待遇であり、軍事刑罰権を行使する都督であり、倭国や百済など7カ国に軍事権を行使できる安東大将軍であり、倭王」
これが倭王の自称であった。

百済など7カ国に対して軍事力を行使する権限を求めているが、百済が支配下にあるなどとは、言っていない。そんなことは倭王でさえ自称していない。百済が属国であった形跡など欠片もない。

さて、倭王の求めに対して、南宋はどのように応じたか。つぎにそこを確かめてみる

倭王の求めに応じて南宋が与えた位は、
「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事、安東大将軍、倭王」

「開府儀同三司」を認めていない。
しかも百済に対する軍事権も認めず、「七国諸軍事」から百済を減らして「六国諸軍事」にしている。

南宋は、「倭国は百済に軍事権を行使できる大義名分がない」と判断したのだ。属国どころか、倭国と対等だと認めているのだ。他方、当時の新羅は高句麗に圧迫される小国だから、攻めとっても良いと認めている。これが中国の正史『宋書』に記録されている歴史なんだ。

ついでの話。

「開府儀同三司」も南宋は認めていない。
倭王がそれを求めた理由は、先に高句麗王に対して「開府儀同三司」が授けられているからだ。
朝鮮半島でしのぎを削っている高句麗が「開府儀同三司」だったら俺だって同じだ、と自称して、公認してくれと求めたのだ。

だけど南宋は認めなかった。倭国が劣勢だったからだ。好太王碑文にあるとおり、かつては百済、新羅を圧迫していた倭国だが、その軍勢は追いやられ、新羅と百済は高句麗に屈服した。いまや百済と対等な所まで後退したじゃんと中国はいってるのさ。

ネトウヨはテキトーにホラを吹いてればいいかもしれない。だけどちゃんとしたことを言うには、こんだけ手間がかかる。学ぶにも骨が折れる。だから簡単に断定できるデマがはびこるんだろう。だけどデマで動かす世の中なんか、ろくなもんではないと思う。目を覚ましくれ。

勉強に骨は折れるが、古代世界をリアルに眺めると、かくも波乱万丈で面白い。倭国側に都合よく書いてある検定教科書で習っただけでは、本当の歴史のダイナミズムは分からない。ましてネトウヨのご都合歴史なんかではね。

ちゃんとしたことを学ぼうな。おしまい。