「南京大虐殺はなかった」のか(1) 東中野教授講演への反論

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これは自分の日記「自由主義研究会が大講演会」で紹介している、「南京大虐殺はなかった」論への簡単な反論です。自分の心覚えとして書いておきます。

「自由主義研究会が大講演会!」
http://doro-project.net/archives/1696

まず結論から。

  • 市民がふつうに家にいるところを引っ張っていくのは違法行為です。
  • 便衣兵であっても、戦闘行為をしていなければ処罰できません。
  • まして裁判にもかけないで殺すのは、絶対に弁解できない行為です。

これが戦時中の国際法学者の見解であり、これは現在でも有効な法理論です。

東中野教授は南京大虐殺などなかったといいます。
南京大虐殺と一口に言っても、さまざまな類型があります。
ⅰ捕虜の虐殺
ⅱ市民の虐殺
ⅲ逃亡兵の虐殺
ⅳ便衣兵の虐殺などです。

教授は、捕虜虐殺も市民虐殺もほとんどなかったと言います。しかし一類型だけ、殺人を認めているものがあります。それが「ⅳ.便衣兵虐殺」です。

教授の話にそって言えば「3.兵士の殺害」がその部分です。これからその言い分のデタラメさについて書きます。便宜上、彼の発言に番号をふっておきます。

① 捕虜とはPOW(戦時捕虜)であり、誰でもがなれるものではない。
② 正規兵以外では、民兵・義勇兵が捕虜待遇を受けることができる。
③ しかし、便衣兵は「不法戦闘員」であり、捕虜にはなれない。
④ 便衣兵は「不法戦闘員」であり、「戦時犯罪人」ではない。
⑤ 捕虜や戦時犯罪人でなければ、裁判を行う必要はない。
⑥ これらは「不法戦闘員」の処刑なので問題ない。

①の東中野教授の言い分は正しいんです。
でも②にはちょっとした留保が必要です。

それを語る前に「便衣兵」の意味を考えます。「便衣」という中国語を日本語に直せば「普段着」です。市民が敵に抵抗して普段着のまま戦う戦闘員を「群民兵」といい、これは正式に認められた戦闘員です。ですから②は「民兵・義勇兵・群民兵が捕虜待遇を受けることができる。」としなければなりません。

日本軍や東中野教授の言う「便衣兵」は、「普段着を着て、市民のふりをした正規兵」のことです。

軍が戦場で無抵抗の市民を撃つのは違法行為です。軍には、敵国市民を保護する義務があります。また武器を持たない市民に、兵士は油断します。これを利用して兵士が市民のふりをして近づいて、兵士を攻撃する。こういう卑怯なやり方は、国際法で保護されません。これが「便衣兵」というものです。

さて、南京市内では多くの「普段着を着た人々」が殺されました。かれらが殺されたことは東中野教授も認めています。彼らは武器を持っていませんでした。抵抗もしませんでした。しかし日本軍は彼らを家々から引きずり出して、大量処刑しました。

教授が、「殺害が正しかった」というには、つぎの証明が必要です。

  • 市民ではなくて「兵士」であった証明。
  • 殺害の法的正当性の証明。

しかし教授は頭から彼らが兵士であったと決めつけています。そこに証明はありません。普段着を着ている人はつぎのうち、どちらかです。

  • 兵士が普段着を着て変装している。
  • 市民が普段着を着てそこにいる。

これは見分けがつきません。市民が普段着を着ているのは普通のことです。ならば、捕まえた相手が市民なのか、兵士なのか、調べねばなりません。それをしないで片端から殺しておいて、あれは兵士だったんだと言っても、通る話ではありません。東中野教授の話は、前提からおかしいのです。

つぎに東中野教授は戦時国際法の話に移ります。
ここでも便宜上、彼の発言に記号をふっておきます。

(ア) 秦氏は『南京事件 増補版』(中公新書、2007年)で、立作太郎『戦時国際法論』(1931年)の「全然審問を行わずして処罰をなすことは、現時の国際法規上禁ぜらるる所」という文章を根拠として、便衣兵処刑を違法と主張する。

(イ) しかし、この立作太郎の文章の主語は「戦争犯罪人」「戦争犯罪」であるが、便衣兵は不法戦闘員であり「戦争犯罪人」ではない。

(ウ) 立はその著書で「戦争犯罪」の類型として5つの類型挙げているが、そのどれにも該当しない。

(エ) したがって、便衣兵は、戦争犯罪人ではなく、ましてや捕虜でもないので、裁判を行う必要はない。

(ア)については問題ありません。たとえ卑怯な便衣兵であって、捕虜になる資格のない者であっても、処罰するには裁判が必要だというのです。当然の見解です。

東中野教授は、しかしこう言います。

  • 「戦争犯罪人」ならば、裁判にかけなければならない。
  • しかし立作太郎の本には、便衣兵は「不法戦闘員」であって、「戦争犯罪人」ではないと書いてある。
  • だから、裁判にかけずに殺してもよいのだ。

立作太郎『戦時国際法論』の文章はこうです。

およそ戦時犯罪人は、軍事裁判所又は其他の交戦国の任意に定むる裁判所に於いて審問すべきものである。しかれども一旦権内に入れる後、全然審問を行はずして処罰を為すことは、現時の国際慣習法規上禁ぜらるる所と認めねばならぬ。

たしかに主語は「戦時犯罪人」であって「便衣兵」とは書いてありません。それでは「戦時犯罪人」とは何か、立作太郎『戦時国際法論』から引用しましょう。

戦時犯罪中最も顕著なるものが五種ある。
(甲)軍人(交戦者)に依り行はるる交戦法規違反の行為
(乙)軍人以外の者(非交戦者)に依り行はるる敵対行為
(丙)変装せる軍人又は軍人以外の者の入りて行ふ所の敵軍の作戦地帯内又は其他の敵地に於ける有害行為
(丁)間諜
(戊)戦時叛逆等是である。……

「便衣兵」は(丙)にあたります。

(丙)変装せる軍人又は軍人以外の者の入りて行ふ所の敵軍の作戦地帯内又は其他の敵地に於ける有害行為、

このとおり、便衣兵は「戦時犯罪人」の中に入っています。末尾に(丙)の全文をあげておきますが、そこで立作太郎は便衣兵(変装した軍人)をはっきりと「戦時犯罪」と書いています。東中野先生は、みんなが立先生の本を読んだことがないと知っていて、テキトーなこと言っているのです。

しかもですよ、ここには「敵地に於ける有害行為」とあるように、「有害行為」がなければ処罰ができない。有害行為とは、戦闘行為です。だから便衣兵であっても、戦闘に参加していなければ有罪にできないのです。

結論として、(イ)(ウ)(エ)は全部間違いです。

市民がふつうに家にいるところを引っ張っていくのは違法行為です。かりにホンモノの便衣兵であっても、戦闘行為をしていないのだから、処罰できません。まして裁判にもかけないで殺すのは、絶対に弁解できない行為です。これが戦時中の国際法学者の見解であり、これは現在でも有効な法理論です。

立作太郎『戦時国際法論』(1931年)抜粋

(丙)変装せる軍人又は軍人以外の者の入りて行ふ所の敵軍の作戦地帯内又は其他の敵地に於ける有害行為

変装を為せる軍人又は私人が、敵軍の作戦地帯又は其他敵国の権力を行ふ地帯に侵入し、鉄道、電信、橋梁、兵器製造処等を破壊せんとするは、情報蒐集を目的とせざるを以て間諜に属せず、又敵国又は敵占領地の在住民の如く敵に対して一時的の命令服従関係を有せざるを以て、戦時叛逆の名を以て呼ぶに適せぬのである。

日露戦役の際、横川、沖氏の行へる所の如きは実に此種の行為にして、犯罪の名を冠するに忍びざるも、敵より見れば有害行為なるを以て、敵が戦時犯罪として処罰するを認めらるるのである。

<追記>

兵士が市民のふりをするのはインチキな行為なのに、そのことだけでは処罰できないのはどうしてか。

  • 休暇中の兵士は私服です。
  • 勤務時間外の兵士は私服です。
  • 軍籍にあっても制服を着ないでいい部署の軍人もいます。
  • 敵対意志を失って、私服に着替えて逃亡している兵士もいます。

上の3つは軍人として捕虜になり、保護される権利をもっています。一番下はもう無害だから、むやみに処断してはいけないのです。

第2次大戦の時に、ドイツ軍が米軍の戦車と米軍の制服で変装して後方に入り込み、妨害活動をしたことがあります。「味方のふりをした敵が仲間を殺しまくっている」という噂が前線に流れて、一時作戦行動ができなくなるほど、連合軍は混乱しました。

この作戦を指揮したのはオットー・スコルツェニー。彼は戦後になってニュールンベルグ軍事法廷で裁かれました。判決は、「無罪」です。理由は、彼は変装したのだから交戦法規違反だが、敵対行為の証拠がない、というものでした。

便衣兵の扱いとは、このようにされるべきものなのです。ウヨさんの一部には、オットーが無罪になったのはアムネスティ条項によるものだという人がいますが、第二次大戦にアムネスティ条項は適用されていないので、誤りです。

<追記>

まぎらわしい書き方をしてしまった。
訂正↓
敵対行為のない便衣兵は処罰の根拠がありません。
敵対行為をした便衣兵は戦時犯罪人として裁判を受ける権利があります。

<追記>

どうして「強い日本」を求める人が増えているように見えるのか。たしかに社会情勢というのはあるかもですね。これまでの「脅威論」の軌跡を考えてみるのは、今後のことについて参考になりませんかね。

朝鮮戦争のあと、政府がアメリカと共に「反中共」の立場で旧ソ連に宥和路線をとっているときは、ロシア民謡が流行ったりしたようです。なのに、「ソ連脅威論」を打ち出したとたんにメディアが脅威情報を流し初め、世論は一挙に反ソ連になびきました。

同じ頃、アメリカに追随して日中国交回復が実現して、世の中はがぜん日中友好ブームにわいています。あの悲惨な文化大革命さえメディアは追及していません。文革を批判したのは、日本共産党ぐらいのものではないでしょうか。

近頃はソ連脅威論が下火になったので「北朝鮮脅威論」や「中国脅威論」の出番のようです。

政府がまた「日中友好」を唱えて、メディアが親中報道を繰り返せば、きっと世論の風向きが変わると思います。世論というのは揺れ動きます。

靖国神社もアメリカからの批判が下ったとたんに、遊就館を閉鎖・改装して、反米展示をなくしました。今後の靖国支持勢力は、米国にとって無害な方向に微妙にシフトしていくことと思われます。そうなるといわゆる国粋右翼は世論から浮くことになるでしょう。すでに『正論』、『諸君』は販売部数低迷に悩んでいるとの業界の指摘もあります。

正しい批判を絶やさなければ、彼らが日本世論の中で大きな勢力を得ることはないと、私は考えています。楽観しちゃいけませんけどね。

しかしそうなると、「強い日本」を求める世論はどこに向かい、その受け皿はどこにあるのか。これから日本の経済的地位が下がれば鼻っ柱もまた低くなるのか、それともフラストレーションが爆発するのか、爆発するなら経済困窮の元凶たる政府の政策に矛先が向かうのか、それとも排外主義に向かうのか。それは私たちの運動がどの程度説得力をもつかによるように思います。