臣民たるもの靖国を参拝すべし???

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1763509358&owner_id=12631570

閣僚の不参拝、都知事が批判
*http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1708262&media_id=2

日本人なら靖国神社に参拝しろというなら、日本のために戦って亡くなった方がみんな靖国神社に祀られているのだろうか。いや、そういう祀られ方はされていない。

実例を挙げよう。

姫路空襲のとき、焼夷弾が降り注ぐ中を、子どもをそっちのけにご真影を守りに行って亡くなった校長は、靖国神社に祀られているそうだ。だが空襲監視要員として監視塔に向かう途中で焼夷弾にやられて亡くなった姫路中学の生徒は、祀られていない。靖国神社に理由を尋ねたら、「公務中の死者は戦死に準じますが、一般市民の空襲被害は天災のようなものですから」という答が戻ってきた。

おい、ちょっと待て。空襲があれば空襲監視塔に行けと命令したのは、誰なのだ。畢竟、それは国だろう。中学生は、その命令に忠実に従って亡くなったのだ。にもかかわらず、死んでしまえば「国と関わりのない天災死のようなもの」という言いぐさは、何たることだろうか。私はムカムカして電話をたたきつけた。

ならば公務中の死者はみな祀られているのか。同じ姫路空襲のとき、子どもを引率して避難する途中、あぜ道で機銃掃射に遭って亡くなった先生は、祀られていない。靖国神社の合祀対象者は、原則として軍人軍属、及び国家総動員法に基づく徴用などの公務死に限られる。公務であっても、子どもを引率していた先生は「教育者のつとめを果たしていた」だけであって、「戦争に参加していた」わけではない。よって、いずれの合祀基準にもあてはまらないのだ。なんだろう、まるで杓子定規な役人みたいに冷たいこの格率は。

では、奉安殿にご真影を取りに行った校長はなぜ祀られているのか。彼が「天皇の写真を守ろうとしたから」。この理由しかあるまい。生きた子どもを守ろうとした先生の死は、国に尽くしたと認められない。たかが写真一枚を守ろうとした校長の死は、靖国神社の価値観に沿うものだ。こんな怪体なイデオロギーがあるものだろうか。

だが、これに類する話は、日本中に掃いて捨てるほどあるのだ。このようないびつな神社が、どうして国を代表する追悼施設であろうか。

日本という国は、融通無碍が持ち味だという。宗教にしても仏教もあれば神道もあり、その他有象無象がゴマンと同時に矛盾なく同居しているのが、この国の本源の姿なのだ。靖国神社思想という「国家神道」のイデオロギーただ一つにのみ、一切の価値観を包摂してしまおうというのが、土台無茶な話なのだ。無茶なことをするから、矛盾が生じるのだ。「国のために亡くなった方を祀る」という広い範疇の価値観を、靖国イデオロギーは、包み込むことが出来ないのだ。靖国神社はしょせん国家神道という政治宗教と密接不可分の政治神社であって、そんなものは日本の伝統でも何でもない。

「靖国に参拝しなければ日本人ではない」というときの「日本人」とは、自然的存在としての日本民族でもなければ日本国籍保有者という法的存在でもない。それは明治から敗戦まで、たかが70年間ほどだけ公的イデオロギーとして存在した、「帝国臣民たる日本人」のことにすぎない。そんなもんにまとめられなくても、私は一向にかまわない。非国民、大いに結構ではないかと、笑い飛ばしてやるだけである。