「南京大虐殺はなかった」のか(4) 南京大虐殺の全体像

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■占領統治計画

『昭和十一年度北支那占領地統治計画』という文書があります。
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/works/KAHOKUA.htm

盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけにして、日本軍が華北一帯に軍事侵攻したのは1937年(昭和12年)7月でした。しかし、日本の陸軍部内ではすでにそれ以前から華北の占領地支配について研究が進められていたことが、この文書でわかります。

文書は毎年更新されていたようです。現在確認できる最も古い「占領地統治計画」は1933年(昭和7年)ですから、満州事変の翌年に、すでに満州に隣り合う華北を占領する計画があったことになります。

ところで軍事計画もさることながら、この文書で大事なのは占領の目的を「重要資源の獲得」としていることです。そして鉄道管理などの商業計画、重工業建設計画をつくっています。さらに重大なのは、貨幣計画まで作っているところです。ここまで計画していながら、「邦人保護」に関する文言はどこにもないのです。

つまり突発的な事態に対処して防御的に攻勢をかけるという軍事計画ではなくて、ことあらば華北を一挙に攻め取ってしまおうという侵略計画なのです。ここが大切なポイントだと思います。

満州事変から後、日本は中国に文句ばかり言っていました。日本をなめているとか、反日活動をしているとか、在留日本人が襲撃されたとか、中国側が悪いから日本はやむを得ず軍事行動に訴えているのだと言い続けていました。しかしこれがただの難癖であったことが、この文書によってわかります。

華北地方の権益を奪うために中国に無理難題を押し付けて、応じればそれでよし、応じなければ軍事力で無理矢理奪ってしまう計画を、すでに昭和7年から練っていたのです。

■侵攻計画発動

時は来ました。

日本軍は中国軍の目と鼻の先で武装歩兵が夜間演習を繰り返し、挑発しました。これまでの日本軍の横暴に腹を据えかねた一人の中国兵が発砲しました。と行っても威嚇発砲で、だれもケガなどしていません。しかしこの発砲に言いがかりをつけて、日本軍はかねてから計画していた侵攻計画を発動しました。

不意をつかれた中国側は応戦のいとまもありません。古都北京が戦火にさらされることを憂慮して、退却しました。

日本軍の言い分では、発砲というような危ないことをした中国軍を「こらしめる」だけで、侵略の意図も領土を奪う意図もないということでした。しかし日本軍は、北京を無血開城させると、また口実をもうけてそこに居座ってしまいました。しかも戦火を華北全体に押し広げました。

これに対抗する軍事力をもたない中国は、日本軍の弱いところを攻めようと考えました。それが上海です。そこならば列強の目もあるし、日本軍はむやみなことができないだろうと考えたのです。ところが当時の日本はそんな常識のある国ではありませんでした。日本軍は上海と南京を無差別爆撃しました。ただちに方面軍を編成して中国軍に全面攻撃を仕掛けました。

上海で日本軍は激しい抵抗にあい、少なくとも2万4千人の戦死者を出しましたが(戦病死者を含まない。戦病者は4万人~5万人といわれる)、中国軍を敗北させました。方面軍司令官松井石根は、そこで任務終了だったのに、本国の指示を無視して、勝手に軍を首都南京に進めました。短期戦の用意しかしていないので、食料がありません。正式の師団ではないから、憲兵隊の数もたりません。しかも指揮しているのが中央の命令など屁とも思っていない連中ばかりです。

5万人の死者をだして生き残り、やれやれ本国に帰れると思っていた兵士たちは、突然の命令にとまどいました。疲れていました。飢えていらだっていました。上海から南京につづく長い道のり、中国軍の敗残兵に追いついてはなぶり殺しにする。民家に押し入って強盗をはたらく。こんなことを繰り返しているうち、兵隊は人間の心を失っていきました。

■南京侵攻

大人しく引き下がったら、北京のように奪われてしまう。中国側は南京防衛を発令しました。こうして両軍合わせて50万人の大部隊が激突したのです。

しかし中国側の戦法は19世紀以前のものでした。強力な野砲の威力に、城壁はもろくも崩れました。精鋭を上海戦で失った中国軍ですから、寄せ集めのような弱兵が大部分でした。しかも司令官が臆病な老人でした。退却の手順も整えず、自分だけさっさと逃げてしまいます。司令部を失った軍勢は、自分がどこを攻撃してよいかすら、わからなくなります。中国軍はたちまち無数の戦死体を残して潰乱しました。

あくまでも戦う途を選んだのは士官学校の少年兵でした。彼らは味方が逃げる時間を稼ぐために、砦に立てこもって降伏しませんでした。やがて銃弾がつきると、生き残りの少年兵たちは捨て身の銃剣突撃をかけ、全員が日本兵の銃弾に倒れて果てました。

日本軍には、皆殺しだ、捕虜はとるな、という命令がでていました。見捨てられ、どちらに向かって逃げてよいかもわからない、哀れな中国兵が続々と捕虜になりました。それらが片端から殺されました。何万という捕虜が捕まって殺されたようです。

揚子江を渡って退却する中国兵と避難民の大軍が大河を埋め尽くしています。そこに砲弾、銃弾が浴びせられました。日本海軍の砲艦も到着し、船という船をかたはしから撃沈していきます。相手は武器など持っていないので、一方的な殺戮です。泳いで逃げる者も容赦せず、なぶり殺しです。

都市攻撃が終われば、混乱を避けるために通常は軍は都市近郊に野営します。しかし季節は12月です。無計画に始めた戦争ですから、野営の準備もろくにできていません。暖をとる方法もありません。そこで方面軍はあろうことか、まだ血のにおいのする、殺気だった兵達を数十万人の市民がひしめく城内に入れてしまったのです。

市内が阿鼻叫喚の地獄に変わったのは、言うまでもないことでした。略奪、強盗、放火、殺人、暴行、強姦、ありとあらゆる犯罪行為が野放しになりました。司令部はそのうえ便衣兵狩りという名の殺戮を命じました。松井石根司令官が戦勝入場式にこだわったので、その期日までに徹底して治安を確保する必要があったのも、殺戮に輪をかけました。後ろ手に縛られ、目隠しをされた市民が何千人も処刑されました。死体は揚子江に流され、河が真っ赤に染まったそうです。こういう殺戮が、3週間も続いたのです。

期間中の不法殺人の数ですが、東中野教授の「研究」によれば、49人。藤岡教授にいたっては、ゼロなんだそうです。この人達には、何と言えばよいのか、わかりません。

■南京以後

南京を占領しても、中国が降伏する気配は全くありません。

そこで業を煮やした日本政府は、全世界につぎの声明を発表しました。

【政府声明】1938(昭和13)年1月16日

帝国政府は南京攻略後、なお支那国民政府の反省に最後の機会を与えるため今日に及べり。しかるに国民政府は帝国の真意を解せず、みだりに抗戦を策し……東亜全局の和平をかえりみることなし。
よりて帝国政府は爾後(じご=これから)国民政府を対手とせず……。(以下略)

「みだりに抗戦を策し」とはなんたる言いぐさでしょうか。日本が攻めていったのに対して、中国が負けないのがけしからんと言うのです。だから、もうお前なんか相手にしないというのです。何たる身勝手な言い分でしょうか。これだけでは足りなくて、2日後には補足の声明を出しています。

【補足的声明】1938(昭和13)年1月18日

爾後国民政府を対手とせずというのは同政府の否認よりも強いものである。(中略)今回は国際法の新例を開いて、国民政府を否認すると共に、これを抹殺せんとするのである。
また宣戦布告のことが流布されているが、(中略)国民政府を対手とせぬ建前から、宣戦布告もあり得ぬわけである。

中国政府が日本国領土を1ミリでも侵したわけではありません。日本が中国領土を切り取っていたのです。それに抵抗するのが罪悪であるとして、中国政府を「抹殺」するのだと言います。これが「侵略」でないなら、何が侵略でしょうか。

これは秘密文書ではありません。政府声明として堂々と新聞発表されたものです。しかしこんなもので驚いてはいけません。こういう外交関係文書はいくらでもあります。学校が教えないから、日本国民の多くが知らないだけなのです。だから、南京大虐殺なんかなかったとか、あの戦争は侵略戦争ではなかったなどととんちんかんなことが平気で言えるのです。