津波と戦争と貧困と

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憲法集会で上映する予定のスライドシナリオです。
まだ修正可能なので、ご意見があればお願いします。

*編集注:実際に上映されたスライドはこちら。写真付き。
スライドと語りで綴る「戦争と貧困」 憲法を守るはりま集会より(2011/5/9)

写真:憲法集会を報道する新聞記事 いまも放射性物質の流出をつづける、福島第一原子力発電所。 安全だ、絶対に安全だと、電力会社も国も言っていたのに、事故を起こしました。 戦争の時も、日本は勝つ、絶対に負けない、と軍隊も国も言っていたのに、負けま...

東日本を襲った未曾有の大震災。
福島第一発電所の大事故は、あからさまにしました。
原発を推進してきた者たちの、無策、無能、無責任な姿を。
うろたえる電力会社の上層部。
それにひきかえ、一人でも多くの人を助けようと、黙々と救出活動を続ける人々。
放射能をくいとめるために、命がけで闘う現場の人々。

どこかで見た光景では、ありませんか?
それは第二次世界大戦のさなか。
無策、無能、無責任な戦争指導部。
無謀な作戦指導に黙々と従い、命を投げ出して戦った兵士たち。
名もない多くの兵士、庶民は、ボロぞうきんのように朽ち果てていきました。

日本の構造は、あの時から、変わったのでしょうか。
それとも、変わっていないのでしょうか。
重い問いかけを、いま私たちは投げかけられています。

■戦争と貧困

姫路市中央公園にひっそりとたたずむ一基の石碑。
石碑の名称は、「満蒙開拓殉難者之碑」。

満蒙とは、満州と内蒙古、いまの中国東北部と、モンゴルの東をいう地名です。どちらも、日本軍が支配していた地域です。政府は、日本の支配地に、おびただしい国民を開拓移住させました。500万人の日本人を移住させる計画でした。これが、「満蒙開拓団」です。兵庫県から、遠く満州に移住したのは、約5,000名。彼らの運命は、このスライドの最後に明らかになるでしょう。

この碑が、私たちに何を問いかけているのか、
そのことを知るため、私たちは、少し歴史をさかのぼります。

■4つの出来事

時は1920年、大正7年です。
この年、大きな出来事が4つ、起こりました。
1つ目は、シベリア出兵という戦争。
2つ目は、米騒動。
3つ目は、この年から政府が「治安維持法」の制定を推進し始めたこと。
4つ目に、朝鮮半島で始められた「産米増殖運動」。

シベリア出兵

1917年、大正4年、ロシア革命が起こりました。
3年経っても、ロシア国内は、革命政府と旧政府とが争い、混乱していました。
シベリア出兵は、その争乱に乗じて、シベリアの東半分を日本のものにする戦争でした。
恥ずべき侵略戦争でした。
シベリアに動員された兵力は24万人。
政府予算は戦争前の58億円から一挙に136億円にふくらみました。
そのうち軍事費が90億円、予算の66.5%を占めるという異常な事態でした。

米騒動

シベリア出兵のせいで、軍用米の需要をあてにして、米の値段が一気に値上がりしました。
米が、庶民にはとても買えない値段となりました。
耐えかねた庶民の怒りが爆発し、街頭や炭坑で暴動が発生しました。
こうして、全国的な運動に発展したのが、米騒動でした。

治安維持法

政府はおののきました。
米騒動は、労働運動と共に、いまや庶民が目覚めつつあることを示しているのではないか。
このままでは、国内が大混乱するかもしれない。
不安を感じた政府は、国民生活の安定ではなく、弾圧の強化で応えます。
治安維持法の制定に向けて動き始めたのです。

産米増殖運動(朝鮮)

米不足に対しては、国内農家の生産を高めようとしませんでした。
代わりに、もっと安上がりの対策をはじめました。
植民地・朝鮮で米をつくれ!それを日本に持ってこい!

朝鮮半島で「産米増殖運動」が始められたのが、シベリア出兵の年、大正7年でした。
日本のために、朝鮮で米を作らせる産米増殖運動は、朝鮮を絶望の淵にたたきこみました。
朝鮮の民衆を強制動員して、10年間で朝鮮の水田を2倍に広げました。
日本に送る米の量を5倍に増やしました。
そのせいで、朝鮮には、1人1日当たり、わずか1合1勺の米しか残りませんでした。
朝鮮半島は、飢餓の半島となりました。

■財政難と貧困

シベリア出兵の結末は、無惨な失敗でした。4年2か月も続いた戦争でした。日本軍戦死者、数千名。手足を失った負傷者、2万名。日本軍は、何も得ることなく、撤退するしかありませんでした。無駄な戦争の、膨大な戦費のために、政府財政は完全に疲弊しました。

こんな実話があります。山形県では江戸時代から、公有地を農民が耕していました。政府は財政の足しにするため、村にこの土地の買い取りを求めました。買わなければ競売に付するというのです。田んぼが売られてしまっては、村ごと生きてゆけません。土地を買うお金を作るため、農民は娘を売るほかありませんでした。昭和6年の大阪朝日新聞がこの事件を報じています。「娘の身代金で官地を払い下ぐ」「一村の少女全部が姿を消す」 と。これが、侵略戦争のもたらした結果でした。

■満州事変

シベリア出兵の失敗と安い朝鮮米の流入は、農村経済を直撃しました。
昭和4年、そこに世界不況と天候不順が追い打ちをかけました。
米と生糸の価格暴落で、農村の経済はたちまち崩壊しました。
弁当を持参できない「欠食児童」のことが、当時の新聞でひんぱんに報じられています。

軍部は叫びました。もう、まともな方法で国民経済を立て直すことができない。国内に蔓延する絶望的な貧困をなくすには、戦争しかない! 満州を奪うしかない!広大な満州は豊かで、耕しきれぬ土地がある。鉄がある。石炭がある。新しい産業を起こせば、失業問題はたちまち解決する。

こうして昭和6年、日本は満州に攻め込みます。失敗した侵略戦争を取りつくろうために、さらなる侵略戦争に打って出たのです。

■三陸大津波

2年後の昭和8年、東北地方をさらに災厄が襲いました。三陸大津波です。相次ぐ凶作、世界不況、さらに津波に襲われ、東北の農村は壊滅的な様相を呈しました。

東北を救え! 国内から多額の義援金が集まり、政府に託されました。アメリカ、イギリス、イタリアなど、国際的支援も届きました。日本が戦争していた中華民国からも義援金が寄せられました。

しかしこれら義援金は、ほとんど被災者に渡りませんでした。国が市町村に送った米や麦代として、ほとんどの義援金が天引きされてしまったのです。残りは用水路建設など、本来は国の予算で行われる事業のために使われたのでした。当時の軍事予算は、国家予算の4割を超えています。しかし政府は、ただの1円たりとも、軍事予算を被災者に回そうとはしませんでした。

農民は、借金を返済するために、親が娘を売るまでに追い詰められました。この写真は、赤十字に救い出された、売られた娘たちです。なんと幼い子どもたちでしょうか。このような少女が、親の手で都会に売られたのです。

赤十字は救出活動をしましたが、どれほど活動しても焼け石に水でした。なぜなら、農村では、村役場が娘たちを送り出す仕事をしていたのですから。役所が身売りに手を貸していたのです。

■満蒙開拓義勇団

政府は国内矛盾をかくし、国民の目を外に向けようとしました。満州は夢の王道楽土だ。民族差別のない新天地だ。満州へ行けば、誰でも百町歩の大地主になれる。貧しさにあえいでいた庶民にとって、満州移民は、人生一発逆転のチャンスに見えました。

しかしそこは、無人の野ではありません。もとから住んでいる人がいたのです。日本軍の手で土地を奪われた、おびただしい人々。彼らは、憎しみの目で移住者を見つめていました。

政府は追い出した元の住民を「匪賊」、つまり犯罪的テロリストだと決めつけました。「テロリストを倒すのに情けはいらない、日本人は自らの土地と権利を守れ」。移住者たちは武装し、軍事訓練を受けました。

貧困が侵略戦争の動機となり、その失敗をつくろうために、新たな侵略戦争が始められる。その渦に、国民が巻き込まれていく。貧困と戦争がもつれあって進行していく、悪夢のスパイラルでした。

やがて、敗戦。
軍という後ろ盾を失った移住者に、満州の人々の憎しみが一挙に襲いかかりました。

兵庫県からの移住者は5,000名。ソ連軍と戦うために男手は兵隊にとられていました。残された3,500名ばかりの避難者は、ほとんどが高齢者、女性、子どもです。命からがら逃げ延びる途中で、2,000名の尊いいのちが異国の露と消えました。満州全体では約27万人の移住者のうち、故国に帰り着けたのは、わずか11万人でした。

国家の無策で作り出された貧困でした。
政府はその貧困から抜け出すためだと言って、侵略戦争の道を進みました。
貧困から脱却したいと願うばかりに、庶民が侵略政策に荷担しました。
しかしそれは、さらなる侵略と貧困とを招き寄せることになりました。
その道の果てに、大日本帝国は滅亡したのです。

そして新しい憲法とともに、新しい日本国が誕生しました。
それから半世紀以上が過ぎました。

いま、私たちはいま問いかけられています。
ほんとうに、この国は新しくなったのですか?
日本国憲法は、ほんとうに活かされているのですか?
人権は大切にされていますか。

東日本を襲った未曾有の大震災。
人々は規律を失わず、助け合いの精神で困難に立ち向かっています。
でも、それだけで良いのでしょうか。
国は嘘や隠し事をせず、国民を大切にしてくれるのでしょうか。
すなおに信じていい国に、日本はなったのですか。
それを決めるのは、私たちです。
信じられる国をつくるのは、私たち主権者なのです。
そのための、憲法なのです。

一人でも多くの人を助けようと、黙々と救出活動を続ける人々がいます。
放射能をくいとめるために、困難な中で、命がけで闘う現場の人々がいます。
涙が出るほど健気です。勇敢です。
でも。
かつて、お国のためにと死んでいった、多くの兵士や国民の姿とかぶさりませんか。
そんなことにならないように、私たちはいま、何をすべきなのでしょうか。

本日、堤未果さんの講演のテーマは、
貧困大国アメリカと日本の未来、
作り出された貧困と民営化された戦争。

貧困大国アメリカの後追いにストップをかけるために、私たち市民ができることは何か、しっかりと学び、しっかりと考えましょう。
しっかりと未来を見据え、そしてしっかりと、憲法を守りましょう。