タモさんのトホホな講演 デバッグ5(陰謀論)

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田母神俊雄氏が2010年11月21日に行った講演の内容を13項目に整理し、その間違いを「タモさんのトホホな講演 デバッグ」の通しタイトルで9回に分けて指摘する。

講演全体のまとめ

2010年11月21日午後2時より、姫路市民会館大ホールに於いて「田母神俊雄講演会(姫路市・姫路市教育委員会後援……トホホ)」が開催されました。 東進衛星予備校専用の受付口が設けられるなど組織動員の成果もあり、参加者は約900名。立ち見も出る盛況...

9回の目次

■元航空自衛隊幕僚長 田母神俊雄講演会 参加メモ ■タモさんのトホホな講演 デバッグ1(歴史認識) 1.自己紹介 2.歴史認識の誤りが国を危うくしている ■タモさんのトホホな講演 デバッグ2(侵略戦争...

5.中国と戦ったのはコミンテルンの陰謀である

<田母神講演の要約>
当時はロシア革命で生まれたソ連がコミンテルンを作り、世界支配を狙っていました。中国で毛沢東軍が共産革命を成功させるには、蒋介石軍が強すぎた。そこで日本軍と蒋介石軍を戦わせて、弱体化させようとした。蒋介石は日本と戦う気なんかなかったのに、西安事件で張学良が蒋介石を拉致監禁して寝返らせたんです。日本はコミンテルンの陰謀で、まんまと戦争に引きずり込まれたんです。

田母神さんがどうしてこんなに日本を間抜けな国に描きたいのか、さっぱりわかりません。日本は戦争に引きずり込まれたと言いますが、敵軍を自分のテリトリーに誘い、補給を困難にして叩くというのは、ナポレオン軍を壊滅させたロシアのクトゥーゾフ将軍が有名ですが、縦深(じゅうしん)のある国が侵略軍と戦う時の常套手段です。古代ローマの時代からそういう戦略が使われていました。

日本軍がそんな手口にまんまと引っかかったと吹聴したのでは、田母神さんの愛する日本軍が笑われこそすれ、決して名誉な話にはならないと思います。

6.真珠湾攻撃はコミンテルンの陰謀である

<田母神講演の要約>
日本はアメリカを侵略したんじゃありません。経済封鎖を受けて、このままではやっていけない所まで追い詰められて、やむなく戦ったんです。

当時、ホワイトハウスには300人のコミンテルンのスパイがいました。真珠湾攻撃はコミンテルンのスパイの謀略で仕掛けられたんです。日本を追い詰めたハル・ノート、日本が絶対に飲めないあのハル・ノートを作ったのは、ハリー・デクスター・ホワイトというコミンテルンのスパイでした。このことはヴェノナ・ファイルという米国の公文書に書かれていて、国務省のホームページで公開されています。

ハル・ノートを作ったのが、ハリー・デクスター・ホワイトというコミンテルンのスパイだったと言っています。ウソです。ハル・ノートの原案を作ったハリー・ホワイトがコミンテルンのスパイだったとヴェノナ・ファイルに書いてあるのは本当ですが、彼の案は日本軍が満州に駐留することを認める、比較的穏和なものでした。より強硬なプランは、コミンテルンスパイではなく別の担当者が作ったのでした。田母神さんは本当にファイルを読んだのでしょうか。

7.真珠湾攻撃はルーズベルトの陰謀である

<田母神講演の要約>
当時、米国はナチスと戦いたかった。しかし戦えなかった。それは、ルーズベルトが「ヨーロッパの戦争に参加しない」と公約して大統領になったからです。そこで日本を挑発して戦争に誘う、そうすれば日本の同盟国のドイツとも戦争できる、こういう思惑で、日本が戦争に乗り出すようにし向けたんです。

田母神さんたち右翼はよく「日本は石油を止められたからやむなく戦争に踏み切ったのだ」といいます。ルーズベルトはわざと日本を戦争に誘い込むために経済封鎖したのだと。いわゆる「ABCD包囲陣」として有名な話です。

ABCD包囲陣とは、A(アメリカ)、B(ブリテン=イギリス)、C(チャイナ)、D(ダッチ=オランダ)の4カ国が結託して日本を経済包囲しているという、戦争当時の政府の主張でした。これは本当なのでしょうか。結論から書いてしまうと「ABCD包囲陣」というのはまったくの幻。日本政府がそう思いこんだか、あるいはそう思ってもいないのに国民をだましたか、どちらかです。そのあたりを確かめてみましょう。

これはほとんど以前に書いた日記の再録です。

泥mixi日記:ABCD包囲網のウソっぱち

これは前日の日記の続きですが、それは読まずにこれだけで読んでもらっても大丈夫です。 「とんでも社会科授業──教育技術法則化サークル」 さて、とんでも社会科授業で教えられている、「日本は石油を止められたからやむなく戦争に踏み切ったのだ...

中国

まず変なのが、C、つまり中国が包囲陣の一画を占めていることです。おかしいではありませんか。日本はそのころ中国を相手に戦争していたのです。戦争している相手と貿易が途絶するのは当然でしょう。自分が今まさに攻撃を仕掛けている敵に向かって、物を売ってくれないと文句を言い、お前はけしからんと怒る。ダイジョーブなんでしょうか?

イギリス

つぎにBのイギリスとの貿易はどうかというと、東洋経済新報社の調査によれば、イギリスとの貿易のピークは戦争の2年前、1939年でした。そしてこの年は、大日本帝国のGDPが最高に達した年でした。その後、貿易が下り坂になるのは、日本経済がピークを過ぎて、日本にものを買う金がなくなったからです。だから買えなくなった。それだけのことです。金を支払わなければ誰も物を売ってくれませんが、それを経済封鎖とは言いません。

オランダ

そのつぎ、Dのオランダ。オランダはこの当時、石油の産地であるインドネシアを植民地にしていました。日本はオランダ領インドネシア(「蘭印」と言った)から大量の石油を輸入していました。戦争が始まる半年前の1941年6月まで、オランダとさまざまな戦略物資の輸入交渉をしていたのです。「日蘭会商」といいます。

その交渉における日本の要求量とオランダ側の回答量を、ねつ造だとケチつけができないように、田母神さんの信頼している防衛庁戦史室が監修した『戦史叢書』「大東亜戦争開戦経緯4」から見てみましよう。

日本の要求オランダの回答獲得率
生ゴム20,00015,00075.0%
錫鉱石3,0003,000100.0%
ニッケル180,000150,00083.3%
ヒマシ6,0006,000100.0%
規那皮600600100.0%
ダマルコパル1,4501,40096.6%
カポック繊維1,0001,200120.0%
カポック種子5,5006,000109.1%
コプラ25,00019,80079.2%
1,0001,200120.0%
パーム油12,00012,000100.0%
タンニン材4,0001,20030.0%
ボーキサイト400,000240,00060.0%
マンガン鉱20,0006,00030.0%
キニーネ806075.0%
ジュート1,3001,400107.7%

これでわかるようにオランダはほとんどの要求を受け入れています。しかも石油に関してはこれと別枠で、130万トンの売買契約が成立していました。経済封鎖の影など、どこにもありません。

ところが、日本はこれでは不満だとして交渉を決裂させてしまったのです。その理由は、100%獲得できなければ、日本が占領していた北部ベトナムやタイに「日本の弱くなった感想を与え好結果とならず」というものでした。何とバカげた交渉でしょうか。

しかもなおタチの悪いことに、売ってくれるというのを断ったのは自分のくせに、国民には「経済封鎖された」と宣伝したのです。これにより石油などを平和的に輸入する見込みがなくなったとして、日本はオランダと戦争して蘭印を奪う決意を固め、その足がかりとして、フランス領だった南部ベトナムに侵攻して占領するという暴挙に出ました。

此の際仏印(フランス領インドシナ)に対する軍事協定締結を促進すると共に南部仏印に駐兵権を獲得すべしの意見胎頭す

こう書いているのは、『機密戦争日誌』(大本営陸軍部戦争指導班)ですので、「左翼の歴史偽造」ではありません。

アメリカ

さて、日本はこのとき、アメリカとも交渉中でした。アメリカは日本が南部ベトナムに軍を送るなら石油輸出を停止すると何度も警告しています。日本はこれに対し、アメリカに向けて、ドイツと違って我が国は領土的野心はないと繰り返していました。

その舌の根も乾かないうちに、日本は南部仏印に軍を進めたのです。それは、ドイツのラインラント進駐に対して列強がこれを黙認したので、日本が少々強く出ても同じように黙認するだろうとの希望的観測があったからです。しかし日本の甘い見通しは打ち砕かれました。米国は直ちに、警告通り、石油の禁輸に踏み切ったのです。

強硬な主張を繰り返せば必ず相手が引き下がると思い上がり、軍事力を振りかざして威張り散らしていたのが、大日本帝国という国でした。「経済封鎖恐るに足らず」という勇ましいタイトルの陸軍パンフレットも出版されていました。しかし実際に石油が輸出禁止になると、あわてふためいて、あたかも自分が被害者であるかのごとき宣伝を始めたのです。これが「ABCD包囲陣」というものの本当の姿です。