タモさんのトホホな講演 デバッグ4(対中戦争)

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田母神俊雄氏が2010年11月21日に行った講演の内容を13項目に整理し、その間違いを「タモさんのトホホな講演 デバッグ」の通しタイトルで9回に分けて指摘する。

講演全体のまとめ

2010年11月21日午後2時より、姫路市民会館大ホールに於いて「田母神俊雄講演会(姫路市・姫路市教育委員会後援……トホホ)」が開催されました。 東進衛星予備校専用の受付口が設けられるなど組織動員の成果もあり、参加者は約900名。立ち見も出る盛況...

9回の目次

■元航空自衛隊幕僚長 田母神俊雄講演会 参加メモ ■タモさんのトホホな講演 デバッグ1(歴史認識) 1.自己紹介 2.歴史認識の誤りが国を危うくしている ■タモさんのトホホな講演 デバッグ2(侵略戦争...

4.日本が中国と戦ったのは侵略ではない

<田母神講演の要約>
1900年に義和団事件があり、北京の大使館や領事館が危険にさらされた。そこで11カ国からなる、今日で言えば多国籍軍がつくられ治安の確保に乗り出した。本来は、外国使節を守るのは清国政府の役割なのに、西太后というとんでもないおばさんが義和団を陰からけしかけていたんです。日本は英国から求められて、多国籍軍の半数に当たる1万人の部隊を送り、日本軍の活躍によって事件が解決した。その時に、またこんなことが起こったのではたまらないというので、清国と協定を結んで、各国は軍を北京に駐留させた。だから、中国に日本軍がいたのは、条約に基づいて、合法的にいたんです。

日本は対支那宥和政策を採っていたので、戦う気はありませんでした。ところが廬溝橋にいた日本軍に支那軍が挑発をしかけてくる、通州事件といって、支那軍が日本人をたくさん虐殺をする、第二次上海事件で日本人を殺すといったテロ行為をしかけてきたから、ついに軍を送らざるを得なくなったんです。

上海から南京に進みましたが、その時に30万人を虐殺したと言います。そんな出来事はありませんでした。当時の外国通信社はどこもそんなことを言っていない。どの国も当時はそんな非難をしていない。30万人虐殺というのは、戦後に作られた説なんです。

ここでも田母神さんは無茶苦茶を言っています。

田母神さんは日本軍が中国に軍事侵攻したのは、1937(昭和12)年7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件がきっかけだったと述べています。しかし、それならばその6年前の1931年(昭和6)年に日本が引き起こした満州事変はどうなるのでしょうか。

また、満州国をでっち上げて中国から奪った後には「熱河省は満州国の一部である」と強弁して中国領土を攻撃して奪い取りました(熱河作戦)。熱河を取った理由は、「平津地方(北京・天津などの華北地方)領有ノ為……作戦ヲ指導スル場合、本地方ヨリ一部ノ作戦ヲ行フノ有利ナルハ当然ニシテ……」と言っていたのです。北京や天津を「領有」するとはっきり書いてあります。

このつぎに着手したのが「華北分離工作」です。日本の陸軍部内ではすでに満州事変の翌年に、華北地方を占領する計画を作っていました。『北支那占領地統治計画』という文書があります。文書は毎年更新されており、現在確認できる最も古い「占領地統治計画」は1933年(昭和7年)ですから、満州事変の翌年です。

この文書で大事なのは、占領の目的を「重要資源の獲得」としていることです。そして鉄道管理などの商業計画、重工業建設計画をつくっています。さらに重大なのは、貨幣計画まで作っているところです。

ここまで計画していながら、「邦人保護」に関する文言はどこにもないのです。つまり突発的な事態に対処して防御的に攻勢をかけるという軍事計画ではなくて、ことあらば華北を一挙に攻め取ってしまおうという計画なのです。まだ占領してもいない地域の統治計画を事前にこしらえていたのですから、こういうのを計画的侵略と言うのです。(『日本陸軍の華北占領地統治計画について』永井 和 京都大学人文科学研究所『人文学報(64)』, p103-152,1989-03 NII論文ID(NAID):40001949686)

そして1934(昭和8)年の陸軍省・海軍省・外務省の関係課長会議で決定された『対支政策に関する件』では、次の如く定められました。現代語訳で紹介しましょう。

「日本の言いなりにならない国民政府(中国)の政策は、大日本帝国の対中政策と根本的に相反する。そこで、日本の言うことを聞かないなら存亡の危機におちいるぞと脅して、南京政権(中国)を究極的に追い込むことにする。当面は南京政権の政令が北京周辺に通用しない状態にすることを目指し、日本の権益を拡大し、国民党が活動できないようにし、地方政府の幹部は我々に都合の良い人物に置き替えさせる……」(文責は泥)

原文
「国民政府の指導原理は帝国の対支政策と根本に於て相容れざるものあるを以て、南京政権に対する方策の基調は同政権の存亡は同政権に於て日支関係の打開に誠意を示すか否かに懸ると云ふが如き境地に窮極に於て同政権を追込むことに存する」
「差当り北支地方に於ては南京政権の政令が北支に付ては同地方の現実の事態に応じて去勢せらるる情勢を次第に濃厚ならしむべきことを目標とし、……我方権益の維持伸長に努むると共に、尠とも党部の活動を事実上封ぜしめ、且北支政権下の官職等をして我政策遂行に便なる人物に置き替へしむる様仕向け……」

なんとあけすけな計画でしょうか。満州事変から後、日本は中国に文句ばかり言っていました。日本をなめているとか、反日活動をしているとか、在留日本人が襲撃されたとか、中国側が悪いから日本はやむを得ず軍事行動に訴えているのだと言い続けていました。

しかしこれがただの難癖であったことが、これらの文書によってわかります。華北地方の権益を奪うために中国に無理難題を押し付けて、応じればそれでよし、応じなければ軍事力で無理矢理奪ってしまう計画を、すでに昭和7年から練っていたのです。

田母神さんは通州事件のことで中国を口を極めて非難しています。確かに通州事件では多数の日本人市民が中国人に虐殺されました。その犯人が「支那軍」だと言っていますが、真っ赤なウソです。犯人は、中国軍ではありません。

通州の町は冀東(きとう)防共自治政府という、日本軍が謀略でこしらえた、かいらい地方政権の首都です。襲撃犯人はその郊外にいた通州政府の保安隊でした。日本軍(天津部隊)が軍事訓練していた部隊です。子飼いの中国人部隊の反乱という非常事態に現地軍は混乱しました。

大正時代から活躍していた政治史研究のパイオニアであり、「大正デモクラシー」の命名者として知られる信夫清三郎さん(元名古屋大学法学部教授)の著書から、陸軍省新聞班の松村秀逸少佐の体験談を紹介します。

(新聞に書くな、いや、いまさら隠せないという)激論の最中に、千葉の歩兵学校から着任されて間もなかった矢野参謀副長が、すっくと立上がって「よし、議論はわかった。事ここに至っては、かくすなどと姑息なことは、やらない方がよかろう。発表するより仕方がないだろう。保安隊に対して天津軍の指導宜しきを得なかった事は、天子様に御詫しなければならない」と言って、東の方を向いて御辞儀をされた。この発言と処作で、一座はしんとした。
「では発表します」と言って、私が部屋を出ようとすると、この発表を好ましく思っておらなかった橋本参謀長(秀信中佐)は「保安隊とせずに中国人の部隊にしてくれ」との注文だった。勿論、中国人の部隊には違いなかったが、私は、ものわかりのよい橋本さんが、妙なことを心配するものだと思った。(『聖断の歴史学』信夫清三郎、勁草書房、1992年)

もともと反乱の兆しがあったところに、日本軍が彼らの陣地を誤爆しました。味方のはずの日本軍から攻撃されて激昂していたところに、廊坊、広安門で中国の第29軍が日本軍を撃破したと噂されていたので、その軍が通州に攻め込んで来れば、親日の保安隊は必ず攻撃されるだろうと脅え、親日ではないことを示すために事件を起こしたようです。いずれにせよ、日本軍が中国本土に乗り込んでその主権を次第に奪っていたから起きた悲劇であって、派兵していなければ起きなかった事件なのです。

当時の日本政府は、田母神さんとちがって、国民党政府を非難していません。国民党政府は無関係だからです。犯人は子飼いの連中です。報復すれば、せっかくの親日勢力が決定的に敵対勢力になってしまいます。そこで、事件を一過性の出来事だとし、日本軍管理下にあった犯人を逮捕もしないでしばらく放置したのでした。

一方で新聞は「支那人部隊」の犯行だと書き立てました。たしかにそうには違いないのですが、日本国民は「支那人部隊」=国民党政府軍だと誤解しました。日本政府はこの誤解が広まるに任せることで、日本人市民の悲劇さえも「支那を倒せ」という世論づくりに利用したのです。その謀略を現代の田母神さんが繰り返している……何たることでしょうか。

南京事件についてはあまりに馬鹿馬鹿しいので割愛しますが、大虐殺の証言は左翼の文献ではなく日本軍の作戦資料、従軍日記など、ゴマンとあることだけ記しておきます。