産経新聞はアメリカの下僕

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沖縄の少女暴行事件について、責任は襲った米兵にではなく少女にあるという産経新聞は、何があろうとも絶対にアメリカにたてつくことをしない新聞だ。

産経新聞と書いて、アメリカのメガホンと読むのが正しい。

今回は被害者に責任を転嫁する理由を、無茶苦茶な論理だけれどもどうにかこじつけているが、誰が見ても、どんなに探しても、被害者に一点の何の落ち度も見つけられず、こじつける理屈すらない場合、産経はどんなことを言うだろうか。

2001年、日本の実習船「えひめ丸」が、アメリカの原潜と衝突して沈められた。原因は、アメリカの原潜が海面を確かめずに急浮上したからだ。えひめ丸にとってはまったく不可抗力の事故だった。いきなり後ろから衝突されたえひめ丸には、まったく何の落ち度も見いだせなかった。

産経は、こういう時でも結論は変わらない。
「米国を批判したり謝罪を求めるべきではない」
この一点張りだった。

その理由は「米国批判は信頼関係を損なう」からだった(2001月2月21日、「アピール」)。
悪い奴を悪いと言ったら損なわれるような関係、そんなものが産経には信頼関係であるらしい。

えひめ丸の引き上げを求めるな、遺体はそのままにしておけとも書いた(2001年3月2日、産経抄)。その理由は、米軍の訓練に支障があるといけないから。遺体を返して欲しいという遺族の願いは、産経に言わせれば「わがまま」なんだと。米軍さまに無駄な時間と費用を費やしていただくなど、米国のしもべであり侍女である産経にとって、まことにもっておそれ多い要求なのだろう。

引き上げ作業で珊瑚礁が破壊されたらどうするのだとも書いた(2001年3月18日、産経抄)。でも米軍基地のせいで沖縄の珊瑚礁が破壊されることについては何も言わない。

9・11テロのときにも、引き上げを中断せよと書いた(2001年9月27日、産経抄)。資金と人手をテロ対策に回せと。

そして引き上げが終了したときには、「米海軍に感謝しよう」(2001年10月27日記事)。米海軍の無謀な訓練で沈められた船を米海軍が引き上げたそのことに、なんでいちいち感謝しなければいかんのだ!

日本人が多数殺されてもこんな調子なんだから、今回の対応も驚きはしない。ただただ、あきれるだけだ。こんな新聞の尻馬に乗って唱えられる「被害者責任論」。

主体性の喪失というのか、属国根性と評せばいいのか、これが体制側に立つ「保守」だというのだから、この国の保守も地に墜ちたものだ。

いっぺん頭の中を「保守点検」したほうが良くはないか。何があろうと米国支持というのは、イラク戦争の初期にも、そうだった。以下に「産経抄」の右往左往ぶりを示しておく。

論理もへったくれもない産経新聞

産経新聞は、イラク政府がいまにも化学兵器で世界侵略を始めるような煽り記事を連発し、イラク戦争は大量破壊兵器を廃棄するための戦争だと書いた。

産経新聞2003年3月21日「産経抄」

戦いは「イラクの自由作戦」と名づけられ、ブッシュ米大統領は「戦争」という言い方を慎重に避けて「武装解除」という表現を使った。しかし大量破壊兵器の廃棄をめざす戦争であることに変わりはない。その実体から目をそらさず、真正面から見すえなければならないだろう。(以下略)

しかし大量破壊兵器は見つからない。すると米国政府にならって、戦争目的を変更してしまい、「大義」のためだと言い始めた。

産経新聞2003年7月24日「産経抄」

権力と暴虐をほしいままにする独裁者が、自分の息子を世継ぎにした悪政は北東アジアにも例がある。イラクの人びとにとって独裁政権の崩壊は歓迎することだったのかどうか。それがこの戦争の大義と是非を問うカギの一つと見てよい。(以下略)

しかし大量破壊兵器がデッチ上げだったことが暴露され、イラクは混乱し、米国は窮地に立った。すると産経は突然こんなことを言い始めた。

産経新聞2004年1月29日「産経抄」

国会は相も変わらぬ不毛の論議をやっている。その一つが、野党側の「イラク戦争に大義はあったのか」という愚論である。大量破壊兵器が見つからない問題のむし返しだが、一体、戦争や革命に大義や正義というレッテルを張る必要があるのだろうか。(以下略)

口をぬぐうや、しれっとしていつものお仕着せがましいお説教を繰り返す。

産経新聞2004年9月18日「産経抄」

またぞろ「戦争の大義はどこに?」と“鬼の首”でもとったように言い立てている新聞がある。パウエル米国務長官が上院公聴会で「イラクで大量破壊兵器の備蓄が見つからず、今後も発見の見通しは少ない」と述べたことに、小躍りしているらしい。小欄はこれまで再三、戦争に大義や正義を主張することのおかしさや、うさん臭さを書いてきた。(以下略)

「“鬼の首”でもとったように言い立てている」、「小躍りしているらしい」。この品の悪さにもへきえきするが、産経とは何よりも、己が言説に責任をとらない言論機関なのだ。

しかし、その前年の「主張」にはこう書いていた。

産経新聞2003年4月5日「主張」

中西輝政・京大教授は、フジサンケイグループの「正論大賞」受賞記念講演で、国際法の父とされるグロチウスの説を引き、国家主権は最大限に尊重されねばならないが、「天人ともに許さぬ」残酷な支配がある国家は、その限りではないとした。イラク戦争はこうした非道の独裁体制との戦いなのである。

つまりイラク戦争とは「天人ともに許さぬ」「非道の独裁体制」をうち倒す正義の戦いだと、社説で説いていたのだ。それから一年も立たぬ間に、戦争に「大義」を主張するのは愚論だという。戦争に大義や正義を主張するのはおかしい、うさん臭さいと言う。

戦争に大義が必要ない、戦争は怜悧な功利にもとづくものだというのなら、一体何を基準にテロリストを非難できるというのか。産経新聞が湾岸戦争を称えたのは、クウェートを侵略したイラクをアメリカなどが実力で解放したからだろう。そこにすら大義は関係なかったというなら、クウェートを侵略したイラクをなんで非難できるのか。

論理性もへったくれもない。ただひたすら、米国にお追従を申し上げるのが、お役目なんだなあ。

産経新聞の被害者責任論

「被害者責任論」は、以前にもあった。イラク人質事件だ。

産経新聞2004年4月10日「産経抄」

誤解を恐れずにいえば、“いわぬこっちゃない”とは、本来、人質になった3人の日本人に対していわねばならぬ言葉だ。イラクでは日本人外交官も殺害されて治安悪化は深まっていた。外務省は再三、最高危険度の「退避勧告」を行ってきたのである。

3人のうち1人は週刊誌に写真や記事を売り込むフリーのジャーナリスト、もう1人もフリーライターの若者。女性だけはイラクの子供たちへのボランティア活動に従事していた。同情の余地はあるが、それでも無謀かつ軽率な行動といわざるをえない。

こういう論調が3人への激しいバッシングを呼ぶことになった。だが産経はその9日前には、こんな記事を書いていたのだから。

産経新聞2004年1月6日
北海道千歳市出身・高遠菜穂子さん(33)
バグダッドで少年たちを単身救済
「医者でもない私ができることを」
【バグダッド=岩田智雄】

イラクの首都バグダッドで、米軍の掃討作戦や武装勢力のテロ攻撃の陰でイラク人社会からも国際社会からも見捨てられ、すさんだ暮らしに身を沈めている青少年たちがいる。
彼らはサダム・フセイン政権の弾圧や度重なる戦争で家族を失い、廃虚となっている雑居ビルの地下室に集まってきた。そんな“ストリート・チルドレン”に、北海道千歳市出身の日本人女性、高遠菜穂子さん(33)が単身、救いの手を差し伸べている。

「無謀かつ軽率な行為」を、手放しで称えております。ことが起きてから、さもわかったようなことを言うくらいなら、誰でもできる。「言わぬこっちゃない」とは、本来産経新聞に言わねばならぬ言葉だ。