中国人強制連行(2)

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■募集方法

日本へ移送された労働者の募集方法のうち最も多かったのは「行政供出」。全体の60%がこれだ。これは行政機関の命令にもとづく供出だ。上級庁から下級庁へ人数が割り当てられる。行政命令なので、下部の郷村ではノルマ達成のため、かなり強制的な集めかたをしなければならなかった。

次に多いのが捕虜の使役。30%を占める。捕虜を強制労役につかうのは国際法違反なので、外面的な書類手続きとしては、いったん釈放し、本人の希望にもとづいて供出したことになっている。

昭和29年参議院での外務省答弁を引用する。

日本軍捕虜となって抑留されておった人が釈放されて民間人となり、その民間人を労務者として連れてきたというものが非常に多いようであります。(中略)捕虜の身分で来たのではなくて、自由の身柄として来たことになっております。

昭和29年当時は、本当のことをよく知っている人がたくさん生きていた。キレイゴトは通用しない。そこで「……ことになっております」と、それがタテマエでしかない実態を認めざるを得なかったのだろう。この2つの手段で移入労働者の90%近くを占める。彼らは絶対に「自由な出稼ぎ労働者」などではない。

■規則と実際

政府文書からは、役人がデスクで書いた規則と現場の実際が違っていた事実が読み取れる。

政府の次官会議では、労働者はなるべく30歳以下で独身者を選ぶと決めていた。たしかに半分近くは20代だった。しかしそれだけでは人数が足りなかった。記録されている最高齢はなんと78歳。最年少は11歳だった。小学生まで引っ張って来たのだ。

食料については十分に確保しなければならないとか、なるべく中国の食文化に配慮せよという規則も作られている。しかし実際には中国で出港を待つあいだに、すでに食糧が尽きてしまった例すらある。中国の港から日本の現場に到着するまでのたった数日のあいだに、労働者の2%が死亡しているのだ。劣悪な食料事情と不衛生な居住環境が原因だ。

現場についてからも事情は変わらない。労働者移入は約2年間続いたが、1人あたりの労働期間は平均7カ月だ。この短期間に、全労働者の17.5%が死亡しているのだ。これは恐るべき数字だ。死亡率52%というすさまじい事業所もある。死亡率が30%を超えた事業所が14カ所もあるのだ。強制労働でなければこんな悲惨なことになるはずがない。

■企業に対する補償

あまり知られていないが、中国人労働者を使役した企業は日本政府から国家補償を受けている。戦争末期から敗戦直後にかけての時期だ。

政府の命令で中国人を使ったのだから、移送費用や人件費、管理費などは国が補償すべきだという理屈だ。その金額は判明している分だけで、当時の金で5,700万円にのぼる。

国民が食糧難と失業で明日をも知れない暮らしにあえいでいた時だ。国庫は何よりもまず国民生活の安定のために使われるべき時だった。そんな時、彼らはちゃっかり国庫からあぶく銭をせしめていたのだ。それなのに、労働者に未払い賃金さえ払わない企業がある。強制労働なんかなかったんだとシレッと言い切る重役がいる。

私は同じ日本人として、恥ずかしくてたまらない。
恥を知れ!と叫びたい気分だ。