火の粉を払う

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1943475718&owner_id=12631570

ツイッターにこんなコメントが届いた。

「捨て垢、大変失礼いたします。(中略)こちらの添削チラシから誠に勝手ながら引用させていただいた所、日本会議支持と見られる改憲派ネトウヨに絡まれて困っています。ひとつお力添えを願えたら嬉しいのですが。こちらのまとめサイト、米欄になります。」http://blog.livedoor.jp/dqnplus/lite/archives/1844189/comments/33854/?p=85

引用とは、日本会議の「押しつけ憲法」デマビラに私がつけた解説のことだ。ツッコミを入れて行ったらもとの文章で残ったのは「マッカーサー」と「軍事占領中」だけというひどい代物だった。

コメント欄を見たら「GHQに添削されてんだから押しつけ憲法だ」というようなコメントがわらわらと。

要望だから以下のコメントを書き込んできた。

「誤解が多いので指摘する。GHQが憲法制定に介入したのは草案レベルまで。憲法本体の審議に介入していない。審議して内容を改めることもできたのに、国会の多数派はそうしなかった。国民が憲法の内容を支持していたからだ。憲法を公布して1年か2年後に国民投票を実施するようマッカーサーが勧めているが政府は無視した。国民の意思で憲法が定着するのを避けたのだ。国民投票しておけばよかったのに。」

捨て垢さんにはこんなコメントを送った。

日本国憲法には自由民権運動の伝統が結実しています。マッカーサー草案は彼の案ではなく鈴木安蔵の案が下敷きで、鈴木案のベースは自由民権の植木枝盛憲法草案です。憲法は支配層には「押付け」ですね。民衆にとってはファッショに奪われた人権を「取り戻した」といえます 。

支配層がマッカーサー草案を丸呑みした原因は主体性の欠如です。主体性の欠如は無謀な戦争に至った要因でもあります。責任を押し付けあう。誰も決断しない。声の大きい者に従う。勇気が欠如したエリートたちが空気に乗ってズルズルと戦争に向かいました。みんな腰抜けですわ。

主体性の有無がドイツとの違いです。ドイツ憲法も占領軍の関与で作られましたがドイツ国内に押付け論は存在しません。占領軍と緊張関係を保ちつつ、ドイツ自身が憲法を作る意思を持って主体的に取り組んだからです。結果的に占領軍の案に似たものになったのですが。

GHQに抵抗する気ならできました。ろくに抵抗しなかった腰抜けが後から「押しつけだ」と騒いだ。内容抜きの議論です。戦後70年近くも国民が支持してきたのに何をいまさら。憲法が押し付けなら安保も同じ。再軍備もそう。改憲論だってもとは米国生まれですよ。

改憲論者は押付け安保や押付け再軍備ハンタイと騒ぎません。なぜならそれがアメリカの意向に沿うものだから。結局、力の強い者、声の大きい者に付き従っているだけのことです(主観的にはそう思っていないだろうけれどね。戦前のエリートもそうでした)。

沢山押し寄せているネトウヨですが、どこかで聞きかじった理屈をしたり顔で繰り返しているだけ。国益論や安全保障論、外交論のすべてにわたって、内容的には護憲論が圧倒しています。

政治的力関係では残念ながら負けてるね。逆転しないとね。がんばりましょう。