元慰安婦・金福童さんは本人の証言する「第15師団」ではなく「第18師団」の慰安所にいたという仮説

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1903422559&owner_id=12631570

元慰安婦・金福童さんの証言が怪しいと右派が総攻撃している。年齢があわない、日本軍の部隊行動に合致しない、でたらめな証言だ、金福童はニセ慰安婦だ……等々。そうだろうか、そのことを、実証的に検証してみたい。

金福童さん

■同時代の公文書に反する記憶

元慰安婦の金福童さんは、第15師団について各地を回ったと証言している。しかし公文書はこの証言を否定している。

南方軍第10陸軍病院の1945年8月31日付の記録に、軍の傭人として金福童さんの名前が載っており、本籍も一致しているので本人に間違いないという。

元日本軍慰安婦・金福童さんの実名記録が発見(朝鮮日報記事)
http://f17.aaacafe.ne.jp/~kasiwa/korea/readnp/k285.html

資料の名を、「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿第4課南方班」という。資料名でわかる通り、金福童さんは第16軍の下にいた。場所はインドネシアのジャワ島である。慰安婦をしていたという以外に、こんな所にいる理由がない。彼女は慰安婦だったのだ。このことは間違いない事実である。

しかし、金福童さんが証言する第15師団は、第15軍に所属する師団である。金さんが所属していたのは第16軍である。第16軍はジャワ島にいた部隊で、第15軍はビルマで戦った。二つの接点はまったくない。金福童さんはシンガポールやインドネシアに行ったと証言しているが、第15師団はそういった場所に行っていない。金さんが第15師団と行動を共にしたとすると、解けない矛盾だらけになる。

本人の記憶は大切にしなければならないが、記憶と同時代の公文書との間に矛盾があれば、公文書が正しいと考えるほかないだろう。第15師団について行ったという本人の記憶は、間違っていると考えた方がよい。しかし以下に示すとおり、「第15師団」という条件さえはずせば、金福童さんの証言は極めてリアルなのだ。

そのことを、これから確かめたい。まずは、広東からである。

■広東時代

証言1「最初、中国・広東の慰安所に入れられた。」
(『朝鮮新報』2013.6.3)
http://chosonsinbo.com/jp/2013/05/0527ry03/

広東省は香港やマカオの北隣、深圳経済特区で有名な地域である。連れて行かれたのは、「14歳のとき」だという(2012.9.23「橋下市長!日本軍『慰安婦』問題の真実はこれです」集会の証言)。先に見たとおり、1945年8月に19歳だったのだから、金さんは1926年生まれである。金さんは戦前の人だから、満年齢ではなく数え年を使う。連れて行かれた数え年14歳は、1939(昭和14)年である。

この年に広東で何があったのだろう。

前年の1938(昭和13)年9月、広東作戦が発令された。作戦部隊は、第21軍。第21軍を構成する傘下部隊は第5師団、第18師団、第104師団である。10月に作戦が開始された。11月には広東の要衝がすべて占領された。この時から広東に日本軍の大部隊が駐留した。翌年には、少なくとも都市部の治安は安定した。それに伴って大量の慰安婦の需要が発生した。金福童さんが連れて行かれたのは、まさにその時期に当たっているのだ。戦史にくわしくなさそうな金福童さんなのに、こんなにピッタリと日本軍の作戦行動と本人証言が合致するのは、偶然とは考えにくい。

なぜ金さんはこんなに幼いのに連れて行かれたのか。

別の地域の資料だが、同じ年、昭和13年4月10日付「第14師団衛生隊」文書に、こんな記述がある。「支那妓女の検黴の成績を見るにほとんど有毒なるにより支那妓婁に出入りせざること。」現地のプロの娼婦は慰安婦として使えないというのである。また同時期の「第11軍第14兵站病院」文書は、内地から来た慰安婦を「あばずれ女」と評価し、花柳病(性病)が多いと書き、病気を持たない朝鮮の「年若き女」を奨励している。こういった軍の要請にもとづいて、金さんのような朝鮮の少女に白羽の矢が立ったのだと思われる。

■広東からマレーシア、シンガポールへ

証言2「陸軍第15師団の本部について、台湾、広東、香港、マレーシア、スマトラ、インドネシア、ジャワ、シンガポール、バンコクと連れ回されました。」

(2012.9.23「橋下市長!日本軍『慰安婦』問題の真実はこれです」集会の証言)
http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/18155831.html

しかし証言2では、最初に行った広東が、台湾のつぎに挙げられている。つまり証言2にあげられた地名は、時間の順序に並んでいるのではないことを示している。これから広東を占領した部隊がどのように移動したのかを確かめるにあたり、便宜的に、金さんが上げた地名に丸数字を振る。

①台湾、②広東、③香港、④マレーシア、⑤スマトラ、⑥インドネシア、⑦ジャワ、⑧シンガポール、⑨バンコク

注意すべきなのは、⑤スマトラと⑦ジャワは、どちらも⑥インドネシアの国内地名だという点である。

⑥と⑤⑦は重複しているのである。その点を念頭に置いて、順次、見ていこう。

1941年11月
大本営がマレーシア攻略を含む南方作戦の作戦準備を下令した。第25軍が編成されて、広東作戦に参加した第18師団がマレー方面に転ぜられた。広東からマレー方面に転進した部隊は第18師団だけである。(証言にある第15師団は参加していない。)金福童さんは、第18師団について行ったのだろう。第18師団は渡航準備のため、広東から③香港を経由して①台湾に移動した。

1941年12月
マレー作戦が開始され、まずタイ国攻撃が始められた。渡洋してきた第18師団が、タイの首都⑨バンコクに進駐した。

1942年2月
第25軍、④マレーシア全域を占領。第25軍がシンガポール作戦開始。同、占領。第25軍は⑧シンガポールに駐留した。

ここで確認しておきたいのが、慰安所の管轄である。中国戦線では管轄があまりはっきりせず、各級部隊がてんでに管理していたような記録がある。しかし下級部隊が内地や朝鮮総督府と勝手に連絡を取り、慰安婦を要請したのでは統制が取れない。その経験の蓄積もあってのことだろうが、南方軍は軍政部に管轄を一元化している。軍政部は各師団の指揮下にない。上級の第25軍の機関である。中国から第18師団についてきた金福童さんの慰安所だが、ここで規則通り、第25軍の管轄下に置かれたはずである。

■インドネシアへ

1942年4月
第18師団が第25軍から離れてビルマに移動した。しかし金福童さんの慰安所は、第25軍の下にとどまった。とどまったからこそ、後にインドネシア・ジャワ島を管轄していた第16軍の名簿に載せられることになったのだ。その理由は、おそらく第一にシンガポールに慰安所が不足していたこと、ビルマにはすでに慰安所があったこと、補給能力の乏しい前線に新しい慰安婦を送り込むのが躊躇されたこと、だろう。

1943年5月
第25軍司令部が⑤スマトラ島のブキッティンギに移駐した(スマトラは⑥インドネシアの地名)。金福童さんたちもこの移駐に従った。

1945年8月
敗戦。

1945年9月
第10陸軍病院(⑦ジャワ)の名簿に「金福童19歳」との記録(「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿第4課南方班」)。この年は正しく満19歳にあたる。

■帰国へ

金福童さんは、どんな理由で第25軍の管轄を離れて第16軍の管轄下に入ったのだろう。

それは引き揚げ準備のためだったと思われる。セレベス島第2軍民生部作成の資料(昭和21年6月20日付)によると、連合軍の命令で第2軍がジャワ島の将兵(第16軍)を管理し、パレパレ港に集合させている。第16軍が管轄していた慰安所の調査も、第2軍がまとめている。日本軍の戦闘序列からすれば、おかしなことが起きているのだ。これは連合軍の都合であろう。日本軍の戦闘序列や管轄を無視しているのだ。兵の管理についていえば、連合軍が用意した引揚船(ジョージポインレックスター号)の運航に合わせているのである(以上の資料はアジア女性基金の『政府調査「従軍慰安婦」関係文書資料』第3巻所収)。

金福童さんが第25軍から第16軍に移ったのも、同じような背景があったのではないかと考えられる。

1946年~1947
インドネシアからの引き揚げ。金福童帰国。

連合軍がまず最初に日本軍に命じたのは、慰安婦を帰国させることであった。「連合国指令書第一号」が「遊女屋並びに慰安婦を日本軍と共に撤退させよ」という命令なのだ。(昭和20年9月7日付「日本派遣南方軍最高司令官宛連合国指令書第一号」『政府調査「従軍慰安婦」関係文書資料』第4巻)

慰安婦の帰還に消極的な軍を、連合軍が叱咤していると思われる。最高司令長官命令だから、慰安婦の帰還はわりと早かった。各種資料を総合してみると、生き残りの慰安婦は1946年6月までには全員帰国しているはずだ。金福童さんの帰国が1946年ならば、1939年から足かけ8年だ。数え年22歳である。本人の証言とピッタリ一致する。

証言3「アジア各地の前線を転々とし、8年間、慰安婦を強いられた」
(2013.5.20『沖縄タイムス』)
*http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-05-20_49450

これで考察を終わる。

金福童さんの証言「第15師団」は、「第18師団」の記憶違いではあるまいか。そう仮定すると、年齢にも経歴にも矛盾が見あたらず、すべての地名が漏れなくピッタリと符合する。もしかすると、「第18師団」の「18」と「第25軍」の「25」が記憶の中で入り交じってしまい、「15」になってしまったのかも知れない。

いずれにせよ、彼女がニセの慰安婦で、デタラメを語っているのだとしたら、これほど見事に地名が符合することはあり得ない。金福童さんの記憶は驚くほどリアルだった。そのことが確認できたのではないかと思う。