戦地からの手紙

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日中戦争 憲兵の手紙424通公開
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私は父親がずいぶん高齢になってからの子どもなので、戦地に何年も行った父をもつ人間は同世代にいませんでした。父は軍隊司法(軍法会議)におりました。憲兵ではなく、裁判所の書記官みたいなものです。

ときどき朝鮮人を捕まえて拷問した話を聞かされました。腕を木刀で殴りつけるのだが、人間の腕というのはなかなか折れないものだとか、後ろ手に縛って天井につり下げると、翌朝には腕がくるりと回ってまっすぐになっていたので驚いたとかいう話です。処刑のために引っ張って行かれる朝鮮人が最後まで口を割らずに堂々としていたのに感心したとか、ちょっと普通では話せないことを淡々と話す父でした。

招集されたときは歩兵でした。満州の前線に送られ、そこで部隊がパーロ(中国共産党軍)の襲撃を受けたそうです。こんなところにいたら殺されてしまうと思い、通信の勉強をして、後方の司令部勤務にしてもらったと。すると、師団司令部も襲撃を受け、通信室の上の屋根をゲリラが走り回り、手榴弾を投げ落としてきた。父は驚き、師団司令部が襲撃されるようでは、これはなんとか日本に帰らなくては死んでしまうと考えました。そこでこんどは軍法の勉強をして、軍隊司法の試験に通って、帰国したとか。

自分は死にたくなくて帰ってきたくせに、戦争の反省をついに一言も口にしなかった人でした。まあ、普通の人はそんなものかも知れません。拷問だって仕事としてやっていただけだと思っていたでしょう。日本軍の残虐な話をよく耳にしますが、つまりは父のような兵隊が多かったんだと思います。自分のしていることを深く内省したりつきつめることをしないで、自己保身と命令への従順さに埋没して、人間性をどこかに置き忘れた。

しかし父の場合、軍隊司法の事務官は戦後に無試験で裁判所に入れたのに、それをしていません。何故かと聞いたことがあります。「同僚で何人もそういう男はいたが、わしにはできなかった」というだけでした。父は父なりに、戦中の行いを恥じていたのかも知れません。

この手紙の主のような人は、多かったのか少なかったのか。

こういう資料があるから、私たちは学習ではつかみきれない戦争というものを知ることができます。よくぞ表に出してくださったことです。戦後、父は戦犯追及を恐れて、記録類を一切合切焼却してしまいました。

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