南無阿弥陀仏と社会問題

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=928180723&owner_id=12631570

20080909.jpg

東本願寺が『同朋(どうぼう)新聞』という月刊紙を発行しています。

今月の表紙は、若い男女がプラカードを手にしてこちらを向いている写真です。プラカードには、こんな文字が書いてあります。

「働きたくても 働けないよ」
「ワタシを 使いすてに スルナ!!」

今月の特集は「この生きづらさは何だろう?」で、雨宮処凛がインタビューに答えています。

インタビューはまず秋葉原の無差別殺人事件が導入部となって、非正規雇用の話、貧しくて不安定な現代社会の話につながっていきます。

事件を起こしたのは、大手の派遣会社から自動車工場に派遣されていた典型的な派遣労働者です。
私の知り合いも同じ会社から自動車工場に派遣されていて、いきなり契約を打ち切られて寮を追い出され、そのままホームレスになってしまった。そういう人を何人も見てきましたから、彼がリストラされたと誤解して、「住所不定無職になったのか ますます絶望的だ」などと携帯サイトに書き込んでいたのは理解できます。

特に製造業の派遣の場合、仕事と住むところが一緒になっていて、クビになると仕事と住居を同時に失うことが多い。さらに遠方から出てきた人など、一定期間以上働かないと帰りの交通費も出ないことが多いので、実家に帰れなくてネットカフェに泊まるしかない場合もある。そんなひどい働かせ方がシステムとして確立されているのに、国や自治体は全く放置しているし、そうした人を助けるセーフテイネットもちゃんとしていない。

秋葉原の事件を起こした彼は、働くのがいやだったわけではなく、働きたいのにクビになったと思いこんでキレたというところがすごく切ないんです。たまたま作業服が見つからなくてリストラされたと思いこんだわけですが、それは周りでクビを切られる人をしょっちゅう見ていたからですよね。そんなふうに職場で一人一人分断されて競争を続けなければならないというのはすごい緊張感ですし、(中略)

たかがバイトと思っていても(クビを切られる方は)すごく傷つくんですよね。こっちはそれによって生計を立てているのに、雇う側にとってはフリーターだからいつクビにしても文句は言えないだろうというような認識の乖離がある。それにフリーターや派遣は誰にでもできるような単純作業が多いわけですが、誰にでもできる仕事にすら自分は必要とされていないと思うと、どんどん自分を否定する悪循環に入っていってしまって、精神的にもおかしくなってしまいます。

-(編集部) どんな仕事であろうと、人は自分のプライドをかけて働きたいと思いますね。ところがプライドがまったくもてないような働き方をさせられている。

特に日雇い派遣の場合など、毎日違う現場に何の教育もないまま放り込まれるわけですし、スキル(技能)を向上させるような環境は何もないわけです。それで「こいつはダメだ」と言われ続けると、本人も仕事ができないのは自分が悪いからだという気持ちになってしまう。それで心を病んで、結局自殺してしまう人もたくさん見てきました。

-(編集部) 雨宮さんはそういう若者に向かって「悪いのはあなたじゃない」と繰り返し呼びかけておられます。問題なのは、競争原理や自己責任を強調する現在の新自由主義的な風潮が作り出した社会制度なのだと。

たとえば日経連が1995年に出した「新時代の『日本的経営』」という報告書は、働く人を三種類に分けて、正社員や専門職のほかに「雇用柔軟型」という分類を作ります。これがつまりフリーターのような使い捨て労働力ですね。そうした層が不況下で国際競争力を高めようということで意図的に増やされ、いつの間にか三人に一人が非正規雇用になっていた。それに「労働者派遣法」が何度も改定され、どんな職種でも人材派遣ができるようになったことも大きな問題です。
それを知ったとき「自分はもうそのとき見捨てられていたんだ」ということがわかってショックでした。フリーターや派遣を増やしておきながら「だらしがない」とか「自己責任だ」と言ってバッシングする。私自身それを受け入れて自分を責め抜いてきましたから、そのことに気付いたときはすごく腹立たしかったです。

-(編集部) フリーターというと「自分で選んだのだから自己責任だ」と言われますが

……就職したくてもできないから派遣やバイトで働いているわけですね。統計ではフリーターの7割が正社員になりたいと思っているのに、フリーターを(正社員として)積極的に採用したいという企業はたったの1.7%です。だからいったんフリーターになってしまうと正社員になる道は遠のいてしまう。
……秋葉原の事件を起こした彼だって、事件を起こす前に携帯サイトにさかんに書き込みをしていて、誰かの応答を求めていたのが切ないぐらい伝わってきます。彼のような人にこうした言葉を届けられなかったことが一番の反省点というか、本当に残念だったことですね。

このテーマは来月も続くそうです。

人間の悩みや苦しみの原因を自己の内に求めないで外部環境に求めるのは唯物論的思考だと思うけれど、私たちが物質社会に生きている以上はそういう思考法を排除できないでしょう。

浄土門の教義は社会問題に関わるのに向いていないとよく聞きます。たしかに法華宗などに比べれば教典上の根拠が乏しいかも知れません。でも本願寺は静かに、しかし、確かに変身しようとしているようです。きっと末寺の熱心な住職さんたちに突き動かされてのことでしょう。

そういう変化を嫌う熱心な念仏者もいらっしゃるでしょうけれど、私としてはいい変化だなと思っています。社会問題と念仏の二足のわらじをはくのではなく、社会問題意識を包摂する念仏がいいな。そんな新しい教学の出現が近いように思います。

追記:信心について

私はもともと東本願寺の門徒なんです。最近信者になったんじゃないんですよ。

まあ信心は「理」より「信」てのはそうかも。浄土の実在を科学的に証明なんてできませんもんね。

でも現実世界についても、「理」ばかりでアプローチできませんよね。それだとたとえば浅薄な「軍事的合理性理論」にうっかり足元をすくわれたりします。理をつくしながらも、背景には正義だとか人間性だとかいう、なかなか証明困難な信念を持っていないと、ふんばりが効かないってのがあるでしょう? そのあたり、親鸞さんの信心や生涯から学べることはとても多いと思うんです。

またコミュでいろいろ質問してください。私は浄土真宗ですけど、いとーさんていう浄土宗の尊敬すべき僧侶さんをはじめ、すごい人が何人もいて、なんでも答えてもらえると思います。とても刺激的で面白いコミュですから。