文玉珠さんの2万円は価値があったのか?

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=69378288&comment_count=0&comm_id=5973321

慰安婦は高給をもらっていた?

■慰安婦の働き方と報酬額 日本軍は各地で慰安所の利用規程を作っており、資料がたくさん残っています。それによれば、一日の拘束時間は12~14時間、休日は多いところで月に2日、少ないところでは土曜日の午前中半日だけ、性病検査のための休みがあるだけでした。 ...

で触れた文玉珠さんの「高額な報酬」についてまとめておく。

■文玉珠さんの貯めたお金は「報酬ではない」

文さんは敗戦後の混乱の中で貯金通帳をなくしてしまったのだが、日本国内に原簿が残っていた。慰安婦の証言がウソだとよく言われるが、文さんの場合はたまたま物証が残っていたので、信憑性が裏付けられた希有な例だ。

原簿には文さんが26,145円を預け入れた記録がある。彼女はこれを「兵隊からもらったチップ」だと証言している。 文さんの軍事郵便貯金原簿の記録を確かめよう。文さんが稼いだという26,145円のうち、昭和20年4月4日から5月23日まで、2カ月足らずの貯金が、なんと20,560円である。

彼女はビルマのマンダレーにいたのだが、ここが陥落したのが昭和20年3月。「大金」を預け入れたのは、その翌月と翌々月。このことから、彼女が日本軍将兵から受け取ったのは、敗戦で紙くずとなった軍票だったことがわかる。いくらがんばって稼いでも、2カ月で2万円稼ぐのは無理だから、ここは文さんの証言が正しいだろう。

彼女の証言を裏付ける傍証がある。元日本兵の人が、当時のビルマの様子を書き残しているのだ。2万円や3万円は本当に紙くずだったのがよく分かる(*末尾資料1参照)。

慰安婦が内閣総理大臣以上の高級取りだったという俗説は、こうして否定された。

■文玉珠さんは5000円を送金したのか

文さんは朝鮮に5000円送金したと証言している。

『強制連行と従軍慰安婦』(平林久枝編)
ビルマに行ってからの名前「文原吉子」名義の通帳は、お金に替えることもできずになくしてしまった。
貯めたお金の一万五千円の中から、手紙と一緒にタイから大邸の実家に五千円を送った時、下士官に「故郷に全部送れ。おまえはバカだ」と言われた。

文さんがいう「なくした貯金通帳」のことも、原簿に表れている。昭和19年5月18日と6月21日に預金した900円分について「19.8.18亡失届出」と記載されているのがそれにあたるのだろう。原簿は「文原玉珠」名義だが、他に「文原吉子」名義の通帳があり、そこに900円を預金していたのだと思われる。文さんの証言だけ読むと、まるで15000円を通帳に貯めていたように取れるが、そうではなく、通帳にあったのは900円。15000円はこれとは別に、軍票をタンス預金していたのだろうと推測するしかない。

軍事郵便貯金から為替で送金したのなら原簿に記録があるはずだが、記帳されていないから、為替送金ではない。預金から5000円引き下ろして送金したのなら引き下ろし記録があるはずだが、文原玉珠名義の通帳は引き下ろし記録がない。文原吉子名義の通帳は、送金したアユタヤに行くまでに昭和19年になくしているから引き下ろせないし、そもそも中身は900円しかなかった。しかも日本政府の規則で、内地に5000円も送金できないことになっていた。

末尾資料2には、内地への送金は禁じられていると書かれている。末尾資料3には、為替送金できたのは、「軍人・軍属が軍より支給を受けたる俸給、旅費、その他の給与」に限ると書いてある。慰安婦の収入は「軍より支給を受けたる」ものではないので、「軍関係のもの」に当たらない。それ以外の送金は「1か月200円相当額以下」に制限されているので、5000円を送金するのはシステム的に不可能だった。すると、文さんが送金したというのは、軍票をそのまま送ったのだろうとしか考えられない。

■送った軍票は使えなかった。

「円」と言った場合、2種類あるので注意が必要だ。ビルマでは「ドル軍票」と「ルピー軍票」が発行されていた。円の軍票は発行されていない。一般に「円」や「銭」と呼び習わしていたのは、ルピー軍票のことである。1ルピーを「1円」と呼んでいたのである(*末尾資料4参照)。

当時のビルマの様子を書き残している日本兵(*末尾資料一参照)が「30万円」などと言っているのも、30万ルピーの軍票のことなのだ。文さんが5000円と言っているのも、ルピー軍票でしかあり得ない。こんなものを送っても、実家で円に換金できたはずがない。そもそも軍票は現地のインフレを内地に波及させないために発行したものだ(*末尾資料5参照)。現地から送られてくる軍票を円に換金できるようでは、何のための軍票だか分からなくなる。そういう仕組みを文さんは知らないから、「朝鮮に送金したのに、家も買わずに兄が下らないことに使ってしまった」と誤解しているのだ。

■貯めた「2万円」には、まったく値打ちがなかった

現地ではインフレが酷くて、「2万円」は紙くずだった。貯金通帳に記された「2万円」は軍票ではなく日本円だが、1945(昭和20)年8月までは政令が効いていたので、1か月100円以上の送金ができなかった。運よく通帳を持ち帰れたら、日本円として引き出せた可能性がある。ただし、帰ることができなかった。

帰れたら、1日30円、1カ月100円以内だが引き出せたかもしれない。(「アジ歴Ref.C01000669700、昭和17年 「陸亜密大日記第43号」」。しかしつぎに述べる通り、すぐにインフレで価値を失った。

1945(昭和20)年9月以後、敗戦により戦時中の政令の効力がなくなると、政府は「金融緊急措置令」を出して預金を封鎖してしまったので、やはり換金できなかった(*末尾資料6参照)

預金封鎖が解かれた頃には、ハイパーインフレ対策で新円に切り替えられており、額面どおり払い戻されても二束三文の値打ちしかなかった。

こうして、どのような面から見ても、文さんの2万円には価値がないことが論証されたことになる。

資料1:ビルマ敗走記? 敗走モールメンへ

88歳ブログ「紫蘭の部屋」
「ビルマ敗走記? 敗走モールメンへ」

「私たちは経理部の者ですが、これから車両と荷物を焼き捨てます、入用の物があったら何でも持って行ってださい」という。私は兵にしては年配で態度がでかいから、将校と間違えたのだろうか、「将校服もだいぶありますから、2、3着持って行かれたら……」という。

何食わぬ顔で「いや、折角ですが、服は持っていますから」と答えたら「じゃ、金はどうです? 今から焼却するところだから必要なだけ持って行って下さい。2、3十万どうですか」と言うので「荷物も多いし、じゃー当座の用に3万円ほど頂きましょうか……」と新札の軍票3万円を貰い、礼を言って別れた。戦前の感覚では普通の会社員が一生稼いでも3万円残せば上等の方である。それにしても始め30万円と聞いた時には驚いた。今の金なら恐らく億単位であろう。あとでこんな事ならも少し欲張っていたらよかった、と思った。
http://blogs.yahoo.co.jp/siran13tb/61475733.html

資料2:読売新聞「大東亜経済建設の指標」1942年2月18日

本邦業者にせよ在来企業家にせよ差当り資金を必要とする時にはすべて南方開発金庫より軍票を借受けるのであって、たとえ三井財閥であっても内地より円資金を現地に持込むことは許されない。この反面現地で或程度の資金が集積してもこれを内地に送金出来ないのであって、現地で得た利潤は現地開発に当てねばならない。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00841425&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

資料3:「南方占領地域における為替管理関係」

第二条

本邦通貨、軍票又は外国通貨を本令施行地外の地に送付又は携帯せんとする者は所轄民生部長の許可を受くべし。但し左に掲ぐる場合はこの限りにあらず。
1.軍人、軍属が軍より支給を受けたる俸給、旅費、その他の給与を携帯するとき
2.軍人、軍属以外の者が旅費に充つるため二百円相当額以下の外貨軍票を携帯するとき

第五条
全各条の規定に違反したる者は三年以下の監禁又は一万円以下の罰金に処す。

下記アジア歴史資料センターにアクセスして、レファレンスナンバー「B02032868600」を入力のこと
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/MetaOutServlet?GRP_ID=G0000101&DB_ID=G0000101EXTERNAL&IS_STYLE=default&XSLT_NAME=MetaTop.xsl&RIGHT_XSLT_NAME=MetaSearchRefCode.xsl

資料4:東京朝日新聞「南方軍政の展開ビルマ篇」1942年12月16日

行政府ではバ・モ長官の命令第一号として貨幣調整令を公布、十月十五日から施行し従来の『アンナ』『バイ』を廃止し十セントを一ルピー(あるいは一ダラー、日本の円と等価)としたが、最初は少し混乱したものの今ではすっかり慣れ市場の売子も『ハイ、お釣りを三十銭』とお客の兵隊さんに日本式にやってのけているのは微笑ましい風景である
*http://133.30.51.93/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00504271&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

資料5:読売新聞「大東亜経済建設の指標」1942年2月18日

南方開発金庫
本金庫は前記の如く南方資源開発、物資蒐集、破壊施設復旧等に要する資金の融資を第一の使命としているが、この融資資金はすべて臨時軍事費特別会計より軍票で借受けることになっており、円通貨を現地において使用しないことになっている。本金庫の資本金一億円、第一回払込二千万円の資金は内地における経費その他内地で必要なる資金に充てられるのである、しかして現在南方に使用されている軍票は満洲、支那で使用された軍票と異ってペソならペソ、海峡植民地ドルなら海峡植民地ドルにマークを付した現地通貨が円と等価の関係で使用されているのであって、これは従来見られなかった初めて□□□□□□、本金庫がこの軍票のみを使用することも本金庫の一大特色である、すなわち本金庫がかかる軍票のみを使用して直接円系通貨を使用しないこととしたことは満洲、支那における幾多の経験より出たものであるが、これによって円貨と南方諸通貨とは一応直接的連繋を断ち切られると同時に本金庫を媒介として間接的に連繋もするという頗る巧妙なる行き方をしているのである。戦争行為継続中現地の或る程度のインフレーションは不可避的であるが、円貨と南方諸通貨とが切離されていることによってこの現地のインフレは何等円貨に影響をおよぼさないのである。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00841425&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

資料6:金融緊急措置令

日銀券(旧券)を金融機関に預けさせて封鎖預金として5円以上の旧券は3月2日限りで通用力を失わせ、翌3日からは新日銀券(新円)を流通させることになった。一人100円に限り新円に交換。以後毎月、生活資金は世帯主300円、その家族100円、事業資金は500円を限度に新円で払い出した。この措置でインフレは一時おさまった。
http://showa.mainichi.jp/news/1946/02/post-1961.html