慰安婦は高給をもらっていた?

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■慰安婦の働き方と報酬額

日本軍は各地で慰安所の利用規程を作っており、資料がたくさん残っています。それによれば、一日の拘束時間は12~14時間、休日は多いところで月に2日、少ないところでは土曜日の午前中半日だけ、性病検査のための休みがあるだけでした。

朝から晩まで休みなく身体を提供したら、水揚げが30~40円、1ヶ月900円~1000円程度になります。ここから慰安婦はいくらぐらい受け取っていたのでしょうか。

資料のひとつに、「馬来軍政監」作成の「慰安施設及旅館営業遵守規則」という日本軍の公文書があります。そこに「芸妓、酌婦、雇傭契約規則」というのが定められています。

慰安婦の給料は「慰安婦配当金」といいます。前借金の額により、配当金が異なります。前借金が大きいほど業者のリスクが高いから、「慰安婦配当金」の割合が低くされているのです。

1500円以上
雇主が6割以内、本人が4割以上

1500円未満
雇主が5割以内、本人が5割以上

無借金の場合
雇主が4割以内、本人が6割以上

前借金の返済については、「慰安婦配当の3分の2以上」と規定されています。水揚げの4割~6割の手取り給料から、さらに前借金を3分の2もさっ引かれるのです。前借金を早く回収したいのは業者として当然ですが、身体はいつ壊れるか分からないんだから、借金が多いほど搾取を強めるのも、これまた当然です。

かくして、3000円も借金があったら、死ぬほど働いて900円の水揚げをあげても、水揚げの6割600円が搾取され、残り300円の3分の2の200円も返済金として取り上げるので、慰安婦の手元に残るのは100円です。

現代の感覚なら50万円程度になるから、宝石を買おうと思えば変えたでしょうが、それは一日12時間以上、年間一万人もの兵隊とのセックスを強制された代償です。

こういう無茶をすると計算では一年で前借金が消えることになり、強制貯金が300円ほどできている。しかし身体はもうボロボロでしょう。

2.文玉珠(ムンオクス)さんの貯金通帳

慰安婦は高給取りだったとのデマが右派から流されていて、その証拠として元慰安婦の文玉珠(ムンオクス)さんの貯金通帳が引き合いにだされます。

元慰安婦の文さんが慰安婦をしていたときに軍事郵便貯金として26,145円を貯めていた通帳の原簿が日本に残っていたのです。小野田少尉の話では、当時の大卒初任給が40円だったというので、その54年分にあたるそうです。

そこで、「そんなに稼いでおきながら、何が性奴隷だ」という意見になります。だけど、その意見は間違っているのです。

3.軍事郵便貯金の正体

その前に軍事郵便貯金というのが何かの説明をしておきましょう。これは郵便貯金と名がついていても、郵便局の貯金ではありません。軍事郵便局というのは軍の機関です。預ける通貨は軍票(南発券と称されました)でした。文さんのいたビルマは通貨がルピーなので、ルピーの軍票が発行されていました。

1ルピーは1円と数えました。しかしこれはあくまでも公定レートであって、現地では実勢レートで取引されていましたし、貯めたルピーを円に替えることは禁じられていました。

4.軍事郵便貯金は日本円に替えられなかった

軍事郵便貯金が公定レートで交換できたのは軍人・軍属だけでした。軍人・軍属の給料は戦時予算で手当されていましたので、円の裏付けがありました。ですから公定レートで交換できたのです。しかし民間人の交換は禁じられていました。なぜなら、日本軍が物資を調達するために大量発行した軍票には、円の裏付けがない。そんな軍票を大量発行したので現地はインフレになりました。このインフレが日本国内に波及しないように、政府は軍票と円の交換を禁じていたのです。

現地がどれほどインフレで苦しもうと、日本だけは安泰という身勝手なシステムを作っていたわけです。この操作には横浜正金銀行が使われました。

*末尾資料1参照:「南方経済処理ニ関スル件」
*末尾資料2参照:大阪毎日新聞「南方へ邦貨携帯 現地軍で厳重に処罰」1942.7.16(昭和17)

5.文さんがもらったのは紙くずだった

では、軍票の1円は、日本円でいくらになるのでしょうか。そのことは後にして、先に彼女が軍票をたくさんもらった背景について述べます。

彼女はこれを「兵隊からもらったチップ」だと証言しています。印字された日付をみましょう(写真参照)。

1945年4月4日~5月23日の2カ月足らずの貯金が20,360円です。彼女はビルマのマンダレーにいたのですが、ここが陥落したのが45年3月です。この時点からあと、軍票は使えない通貨になっています。3月に価値のなくなった軍票を4月にもらっているのです。文さんは、使えないお金(敗戦で紙くずとなった軍票)を、日本軍将兵から受け取っていたのです。

こういう軍票をつかまされたのは、慰安婦に限りません。在留邦人も同じでした。その人たちは日本に引き揚げてきてから、日本円に変えて欲しいと要求しました。しかし敗戦で日本そのものが混乱していたので、交換できるようになったのは、昭和29年のことでした。持ち込まれた金額は、10万円が最高、大部分はそれ以下だったそうです(*末尾資料3参照)。文さんはその大部分の、しかもかなり下の方の金額です。

1軍票円が1円に交換されたわけではありません。換算率は軍事郵便貯金等特別処理法で定められていました。以下のサイトで換算表が確認できます。

軍事郵便貯金等特別処理法(昭和29年法律第108号)
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hs29-108.htm

その換算表で計算すると、文さんの貯金額は、日本円で3,215円となります。この年の大卒銀行員初任給は5,600円だったそうです。その1か月分にもなりません。ということで、文さんは全然金持ちではなかったことになります。

6.慰安婦という収奪システム

文さんがビルマにいたころ、日本軍は、価値の裏付けのない軍票を大量に発行していました。
そこで、日本軍が占領した地域では、どこもすさまじいインフレに見舞われています(*末尾資料4参照)。

1945年3月のビルマ陥落直前には、物価は3年前の2千倍になっていました。いくら物価が上がっても、兵隊が慰安所に支払う料金は一定です。文さんたちが前借したのは日本円ですが、返済金として業者が受けとるのは価値の下がった軍票です。業者としてはたまったものではありません。

慰安婦の立場でみても事態は同じです。受け取る軍票の値打ちは、文さんたちの知らぬ間に、どんどん値打ちが下がっていました。文さんたち慰安婦は、3年前に慰安所の親方からもらった給料1円は、3年後も1円だと思いこんでいました。だけどその1円は、名前こそ1円ですが、日本の1円とは縁もゆかりもないものでした。45年3月になると、2万円もらっても、3年前の8円90銭の値打ちしかなくなっていました。

そこで業者は利益を出すために搾取を強め、慰安所でツケで買う物品に法外な値段をつけました。これではいくら働いても借金を返すことができません。

従軍慰安婦の強制性を否定している秦郁彦教授ですが、慰安婦の人数を推定するにあたって、南方の慰安婦は交代がなかったと仮定しています。
つまり行ったきり、年季明けで返ってきた慰安婦は数えるほどしかいないと推定しているのです。
それもむべなるかな、慰安婦たちは価値が下落する一方の軍票をつかまされ、永遠に終わらない債務地獄にたたき落とされていたのですから。

7.例外的状況(議論を受けて、補足します)

広い日本軍の占領地の中で、軍票経済がしっかりしている所もあったようです。中国の西半部の要衝には派遣軍司令部があり、多額の予算を投入していたので、景気がよかったという証言があります。そういう所では、軍票バブルのおかげで、一時期慰安婦の羽振りがよかったようなこともあったみたいです。しかしそれはあくまでも例外にすぎず、しかも一時期のにぎわいでした。

国会答弁によれば、中国で100円の軍票を預けても、通帳に記載されるのは18円。軍票を日本円に替えるには、さらにその432分の1にしたそうです。軍票の価値は、中国では最終的に2400分の1(*末尾資料5参照)になってしまったのです。しかも、これは最高の換算率の地域なのです。

資料1 南方経済処理ニ関スル閣議決定

昭和17年1月20日 閣議決定
南方経済処理ニ関スル件(議会ニ於テ必要アル場合進ンデ説明スル要旨)
*http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00374.htm

原文のカタカナと一部の漢字をひらがなに直し、多少表現の仕方を現代文に近づけました。

(三)通貨については……
従って当分の間は本邦と現地との間に特殊の場合を除いて原則として資金の移動を認めないこととすると共に……

以下、原文です。

(三)通貨ニ付テハ当初ハ現地通貨標示ノ軍票ヲ使用シ現地通貨ト等価ニ流通セシメ、情勢ニ応ジ逐次現地通貨ト軍票トノ機能ヲ調整シ其ノ統一ニ進ム方針デアル

従ツテ当分ノ間ハ本邦ト現地トノ間ニ特殊ノ場合ヲ除キ原則トシテ資金ノ移動ヲ認メザルコトトスルト共ニ資源開発等ニ要スル資金ハ現地ニ於テ南方開発金庫ヨリ円滑ニ之ヲ融通スルコトトナツテイル

資料2 大阪毎日新聞記事

大阪毎日新聞 1942.7.16(昭和17)
南方へ邦貨携帯 現地軍で厳重に処罰

南方建設の逞しき進展とともに最近南方諸地域への渡航者が漸次増加を示しているがこれらの渡航者の中には邦貨をそのまま携帯して現地で使用するため現地の通貨工作に重大な支障を来しつつある現状にかんがみ、今回現地軍では邦貨使用者を発見次第厳重に処罰するとともに携帯邦貨を没収することに決定した、もともと邦貨の海外携帯は為替管理法で原則として禁止され、違反者は処罰されることになっていたものである。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00841450&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00841450

資料3 国会答弁

第019回国会 郵政委員会 第12号
昭和二十九年四月三十日
政府委員答弁

政府委員(小野吉郎)
大体十万円以内のものが大部分であります。多少それをオーバーするものがありますが、これは極く微々たる例外でありますので、まあ最高が十万円、ところがその最高十万円もパーセンテージとしては非常に少いのでありまして外地の郵便貯金に、これは野戦郵便、海軍軍用郵便所に預入せられたものではなく、一般の軍人軍属以外の同胞が郵便局に預けたものでありますが……
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/019/0806/01903110806012a.html

資料4 インフレ率

東南アジア諸地域通貨発行高及物価指数
http://d.hatena.ne.jp/monyupo/20080923/1222157584
日本銀行発行『戦時金融統計要覧4巻』より

文さんのいたマンダレーはラングーンの北方にあります。

1941年12月=100とした指数
1944年6月
東京 121
ラングーン 3,635
シンガポール 4,469
バタビア 1279

1945年8月
東京 156
ラングーン 185,648
シンガポール 35,000
バタビア 3,197

ラングーンの数字を詳しく掲載します。

1943年12月 1,718
1944年03月 2,629
1944年06月 3,635
1944年09月 5,765
1944年12月 8,707
1945年03月 12700
1945年06月 30,629
1945年08月 185,648

資料5 国会答弁

第019回国会 郵政委員会 第12号
昭和二十九年四月三十日
政府委員答弁

政府委員(小野吉郎)
軍事貯金につきましては中国関係の預入が非常に多いのであります。北支、中支、南支が、これが全体の約九四%ばかりを占めております。而もその中で今回の換算率で行きますと、換算率の一番高いものと申しますか、中支地域でありますが、まあ二千四百分の一になるわけであります。……中支方面の関係におきましては、かなり換算率によつて支払い金額は少くなりますが、これは儲備券が非常に下落をした、こういう実情に対応するものでありまして従つて仮に十万円の貯金を持つておりましても、額は非常に少くなるというような計算になるわけであります。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/019/0806/01904300806012a.html