靖国神社について

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あるマイミクさんがよしりんの漫画の感想を書いた所、別の方(下記で「○○さん」)からコメントがついて靖国論議になりました。そこに私もコメントしたので、せっかく書いたんだから日記に挙げておきます。

♪雲をつくよな大鳥居 こんな立派なお社に 神と祭られ勿体なさよ 母は泣けます嬉し泣き

境内にある戦争博物館「遊就館」に展示してある三菱零式艦上戦闘機五二型。
いわゆるゼロ戦


○○さん

私(どろ)の名前が上がっているのでお答えします。ここに書くのは私の考えで、日記主さんの考えと同じかどうかは分かりません。それを前提で読んでくださいね。

それから、私は自分の考えを正しいと信じていますが、こと宗教に関しては私は浄土真宗しか「行」としては知らず、他の宗教を行として体験したことがないので、間違っているなんて言えません。ですから他宗教批判と読める箇所についても、それは教義そのものを批判しているのではなく、宗教団体としてはいかがなものかと思われる「行ない」についての批判です。またその行いが客観的に宗教の名に値しないと判断すれば、私としては宗教と認めないことがあります。

そういう観点からの批判ですので、どうか、それを踏まえてお読みください。

○○さんから日記主さんへの質問
[1]当時、神道の信仰者が大多数派であったことを根拠として
国立追悼施設の建設を否定することが、さしたる根拠でないと判断された理由は何ですか?

>神道の信仰者が大多数派

ここには大きな事実誤認があります。靖国神社に「神道の信仰者」はいません。明治憲法は不完全ながら信教の自由を認めていました。なので靖国信仰を国民に義務づけるのは、憲法の原則に触れることになります。そこで政府は「国家神道は宗教ではない」と明言しました。宗教でないのなら「信仰者」というものもあり得ないことになりますね。ですから国家神道の「信仰者」が大多数派であったというのは、事実誤認となります。

しかしです。これが希代の詭弁であることは論を待ちませんよね。国家神道はまさしく宗教でした。政治宗教ですけど。国家神道とは、宗教であるものを宗教でないと強弁することで、成立していたのです。国家神道とはそういう巨大な虚偽を受容することなしに存続できなかった宗教であり、私としてはそのような欺瞞としか呼べない基盤の上にかろうじて成立しえた宗教を、まともな宗教とは認めません。

靖国神社がまともな宗教であると言う方は、そのように主張する前にまず釈明しなければなりません。自らを宗教でないと主張して他宗教を圧迫した存在がどうしてまともな宗教といえるのか、この点を語らねばならないと思います。

齋館を進発する天皇の勅使 秋期例大祭にて

軍人勅諭→ 朕は汝等軍人の大元帥なるぞ

以上が戦前の話です。
戦後はそうではありません。
靖国神社は宗教法人と自己規定しています。靖国神社は宗教施設となりました。

ところで靖国神道の信仰者というのは多くありません。戦死者を慰霊する施設がそこしかないから(あるいはそこしかないと喧伝されるから)、遺族がそこに参拝を続けているだけであると言えます。けれど、実はそこに血縁の霊はいないんです。血縁的紐帯から切断され、人格を失った「靖国大神」がいるだけです。

靖国神社の御祭神は一座です。分かりやすく申せば「靖国大神」といふ単数御祭神です。靖国神社の御祭神は「246万柱」と申しますし、ご遺族が御参拝になられますと「靖国太郎命と御名を宣別けて」と祝詞奏上されますので、混乱されるかもしれませんが、246万の命が一体となった御祭神であり、遺族参拝の際には靖国太郎命と御名を宣別けてゐるだけなのです。あくまでも一御祭神です。
*http://jinja.or.jp/modules/wordpress/index.php?p=9

つまり死者は人格を失って一つの神になるんですね。遺族はそこに死者との家族的紐帯があると信じて参拝するのですが、神道理論から言えばそれは遺族のセンチメンタリズムにすぎないと。本来の靖国神社とその神はあくまでも天皇と直結した護国霊としてのみ存在するので、そこに家族が介在する余地はないんです。だから遺族の思いというのは一方通行の錯覚であると。有り体に言えばそういうことのようです。

だから遺族が血縁の紐帯意識をもって参拝するのは、靖国神社の本旨を誤解していることになります。靖国神道の立場からすればそういうことです。靖国神道の信仰者というのが多くないというのは、そういう意味です。

すべからく宗教教団というものは、その信仰・信条が広く共有されることを望みます。自分たちの教義を広く伝え、信者を増やそうとするものです。にもかかわらず、靖国神社はその神道教義を広く公開しようとしていません。信徒に対して本来の教義を伝えず、遺族側の一方的な誤解・錯誤に依拠し、虚偽の信仰心を抱かせてよしとする、その行いに正当性があるのでしょうか。

こんな宗教を、私はまともな宗教だと認めません。靖国神社を参拝する人がいかに多くとも(現実には年々参拝者は減り続けていますが)、その内実がこのようなものである以上、国民を代表する追悼施設としては失格です。

>信じるべき対象がそこにあれば、人は祈るでしょう。人の祈りを理屈で妨げることができましょうや。

これは一般的評論として、正しいと思います。しかし、信じるべき対象がそこにないのにあるかのように誤解させて平然としている宗教なんて、どれほど信じる人がいようとも、私はそれをカルトと呼びます。

以下は蛇足ですが、国家と宗教は分離されねばなりません。ですから一民間宗教施設である靖国神社に、公務死した人の祭祀を代表させるというのは国家の怠慢と言えます。まして民間宗教施設を国家管理するなどは憲法上許されないことです。

8.15に集まった右翼団体の皆さん

♪汨羅の渕に波騒ぎ 巫山の雲は乱れ飛ぶ 混濁の世に我れ立てど 義憤はなくて 尻すぼみ

○○さんから日記主さんへの質問
[2]神社である靖国神社の非宗教化とはどういうことを意味するのでしょうか?

>ならば、一追悼施設であると宣言すればそれで問題はほぼ解決と思いますよ。それでも、大東亜戦争までの多くの戦死した兵士が合祀されるべき場所としての靖国神社は存在しつづけるでしょう。

「一追悼施設であると宣言すればそれで問題はほぼ解決」というわけにはいかないんです。宗教法人が宗教法人のまま非宗教化することはできず、非宗教化するためには宗教法人格を捨てなければなりません。靖国神社が遺族の感情に添って、戦死者の追悼・追慕だけのために存在する気があるのならば、宗教法人でなく祭祀施設になればよいのです。

祭祀施設とは墳墓のようなもので、特に教義はないし、宗教法人でなくても運営できます。このプランは遺族の集まりである靖国崇敬奉賛会から出された案です。しかし靖国神社は遺族の案を拒否しました。

これを靖国神社が拒否したということは、靖国神社が戦死者の追悼・追慕だけのためにあるのではないことを示しています。それは彼ら自身が公言しているとおり、「戦死者の奉慰顕彰」、「英霊の武勲、御遺徳を顕彰」するのが目的だからです。お墓に参る人は、お墓の中の人を哀れむか、懐かしむか、褒め称えるか、自由です。でも靖国神社は「顕彰」こそが、その存在意義なんです。

顕彰とは、功績をあきらかにして、これをたたえることをいいます。戦死は痛ましいだけではなく、あくまでも、名誉の戦死であるという教義なんです。そして靖国神社はその教義を広く布教することを宣明しています。

すると、戦死者について“間違った戦争に動員され、辛い戦場でむごたらしく殺された可哀想な血縁者を追悼し、せめてゆっくり眠ってくれることを願う”遺族というのは靖国神社の本旨にもとる、まるで神社で南無阿弥陀仏を唱えたり、アーメンと唱えたりするのと同じくらいに不埒な信徒ということになります。

こういうことですから靖国神社の非宗教化は今のところ無理なんですが、いざ非宗教化されて「靖国墓地」のようなものになったとすればどうでしょう。

宮司さんはお墓の管理人さんとなり、お賽銭がなくなるから維持費は遺族からの墓地管理料金でまかなうことになるでしょう。誰がそれを支払うかなあ。お墓は何も東京まで行かなくても身近にあるし、国が管理する戦争被害者の墓地なら千鳥ヶ淵にあるんだから参拝者は減ることになるだろうし、徐々に衰退するんじゃないでしょうかねえ。まあ、これは私のただの推測です。間違っているかも知れません。

8.15 往時をしのび参拝する旧帝国軍人と戦後生まれのコスプレさん

♪天に代わりて不義を討つ 忠勇無双の我が兵は 歓呼の声に送られて 今ぞ出で立つ父母の国 勝たずば生きて帰へらじと 誓う心の勇ましさ

靖国神社の存在意義は、やはり「戦争ばんざい」を唱えているからですよ。「英霊の武勲、御遺徳を顕彰」というからには、日本の行ったすべての戦争は正しい戦争だったという歴史観に支えられていなければならないでしょう。そういう政治的価値判断を基盤としなければ成立しない教義をもった宗教には、政治宗教という名が相応しいと思います。だからこそ政治家が有り難がるんです。自分が言いたいことを、宗教の皮をかぶって言ってくれる便利な存在だから。

でもね、自分たちが正しかったとすれば、それに抵抗した人々は間違っていたことになります。間違った抵抗で亡くなった相手は、しなくてもいいことをして死んだことにります。ですから靖国神社境内の鎮霊社(敵対国の国民も祭ってある)の祭神は「奉慰の対象」、つまり可哀想だったねと慰める対象ではあっても、彼らの祖国のために勇敢に戦った英雄として「顕彰」する対象になり得ない。これは政治の論理であって、宗教の倫理ではないと思います。ですから私は靖国神社をまともな宗教施設だと思いません。

境内にある「鎮霊社」。
靖国本殿に祀られていない霊と外国の霊を慰めるといいますが、本殿に比べてとても小さい

きついことばかり書きましたが、これが実態だろうと思います。それでもいい、自分は靖国を信じるという人はその心に従えばいいんです。それはその人個人の内面の価値判断に属することですから、私から何かを言う資格はありません。けれども、靖国を他者に対して語る時には、靖国の大きな虚偽について黙さずにいてほしいと思います。虚偽について知った後でそれを黙するのは、虚偽に荷担したことになるからです。

思いの外、長くなってしまいました。○○さんも、それから日記主さんにもごめんなさい。

沖縄戦で使われた大砲を展示している。
九六式十五糎榴弾砲、八九式十五糎加農砲。

<追記>
私は仏教徒ですが「靖国をやめて仏式の葬祭に切り替えるべき」だとは思いません。それをしたら、靖国の二の舞でしょう。「仏式の葬祭に切り替える」ことと「国家論」が併置されているのもどうかと思いますね。仏教国家なんて誰も望んでいないでしょうし。

国のために戦った兵士を国家が放置してよいとは、私は考えない。その死をいかように捉えるか、それは生きている諸個人の価値観に任せるとしても、その死が重いものなのは確かですよね。各国はいろいろな価値観(賞揚もあれば批判もある)や宗教から超越した、「無名戦士の墓」を備えています。これと靖国神社は全然違うものです。私はそういう施設はあるべきだと思うんです。

浄土真宗は体制にすり寄るために、親鸞聖人の「教行心証」の一節を削除しなければならなりませんでした。この一点を挙げるだけで、戦争翼賛が浄土真宗の教義と相容れないことがわかります。戦争に協力した教団は、その時、宗祖の意に背いた背教者になったんです。教義よりも、現世の栄耀栄華を選んだんです。まことに人間というのは弱いものですね。真宗といえども権力者に膝を屈することがあると実証できたのですから、一門徒としてはその歴史を踏まえ、その反省のうえに立って、教団に対して戦前とは違う関係性を持つべきだと思いますし、すでにそういう実践がされているんですよ。

諸外国には「無名戦士の墓」があります。「無名戦士の墓」には氏名不詳の兵士の遺体が一体または数体埋葬されていて、その遺体に全戦死者を象徴させるんです。「無名戦士の墓」と靖国神社の違いは大きいです。

  1. 「無名戦士の墓」は無宗教の祭祀施設ですが、靖国神社は特定の教義をもった宗教施設です。
  2. 「無名戦士の墓」は国家が管理する施設ですが、靖国神社は民間施設です。
  3. 「無名戦士の墓」に祭られている兵士は個名性をもっていませんが、靖国神社の祭神霊爾簿には固有名が記されています。
  4. 「無名戦士の墓」には固有名がないだけで、戦死者個人の人格を奪ったりしませんが、靖国神社は固有名をもった兵士の人格を奪い「靖国大神」に融合します。
  5. 「無名戦士の墓」は顕彰を目的としませんが、靖国神社は顕彰が目的です。
  6. 「無名戦士の墓」は特定の戦争の政治的価値判断と無関係ですが、靖国神社は自国の戦争を肯定・賛美します。

ちなみに米国のアーリントン墓地は希望者だけを埋葬していて、全戦死者を埋葬しているわけではありません。埋葬を希望するのは全戦死者の1割程度だそうです。常時契約しているのはプロテスタント、カトリック、ユダヤ教だけですが、遺族の希望に添って全宗教の祭祀ができるよう、僧侶を捜したりして責任をもつ管理官が置かれています。もちろん、経費はすべて国費です。

ヒモにたぶらかされている女性が、ヒモの言葉や態度に愛を感じ、癒しを感じていたとしても、実はヒモが女性を愛しているのではなくて、たいていは女性が勝手にヒモに幻想を抱いているだけでね、ヒモの目的は真実の愛ではなくて女性がくれるカネです。遺族を女性、ヒモを靖国、カネを命と置き換えれば、分かりやすい。

で、ヒモに心底惚れていて、そいつに尽くすことで満足を得ていると言う女性に対してですね、不幸になるから別れなさいとか、そのヒモと女性の関係性を論理的に説明したところで、聞いちゃくれません。頭で分かってても心が納得しないとか言い返されるのが関の山です。

社会というのは心情とか情念という体系化しにくいものを包含して動いているものだから、体系化された思想を現実社会にあてはめると、きっと矛盾が生じます。これは左右を問わず、あらゆるイデオロギーに共通した、避けられない運命です。その矛盾を補おうとすると、今度はイデオロギー自体に内部矛盾が生じます。これは当たり前のことですから、世の中とイデオロギーというのは、互いに絡み合って変化していくのが普遍的現象ですよね。ですから、そのような矛盾を突っつこうと思えば簡単にできるわけで、加藤典明なんかの議論の出発点はそうです。こんなのはさほど深い思想的意味を持たないし、関わると観念論の森に迷い込むのが落ちだし、語るのが面倒なだけと私は考えるので、そういう議論はお好きな人がなさればよろしい。国民の99.99%が読みもしない論壇の観念遊戯には興味もないし、付き合えないです。

体制を握っている側が現実的な支配力と物質力を背景に展開するイデオロギーが強い力をもつのは、これも当然のことです。それは思想としての正しさとか深さとか強さを意味しません。財政力をバックにした実現力とか、発信力の強さを意味しているだけです。

私の方法論は別のところにありますので、それを語ります。もとのたとえ話に戻りますけど、ヒモと靖国には大きな違いがありますね。ヒモは相手をその気にさせるために、どんなウソでもつきます。しかし靖国は教義をもったシステムですから、大きなウソがつけない。ですから靖国神社自身が発信するものには、遺族を慰撫するものはカケラもありません。女性に愛を語れないヒモみたいなもんです。

そこでヒモのまわりにいる奴が、女性に対して「あいつはおまえを愛してるんだよ」なんてヒモの代わりに吹き込むことになるんです。それが靖国イデオロギーの役割です。何度も繰り返しますが、靖国自社自体には遺族をどうこうという教義はありません。ないものをあるかのように見せかけるのは、政治・行政組織とか思想家とか売文稼業の文士とかです。そういう目くらましによって、遺族が靖国を誤解しているんです。

ならば、女性の目を覚まさせるためにヒモに直接語らせればどうでしょう。「俺は別におまえを愛していない」と言わせるんです。つまり靖国神社そのものに靖国の自画像を語らせればいいんです。幸いなことに、そういう資料はすでに存在します。するとそこには遺族を癒す教義などどこにもないことがわかります。あとはこの真実を、どれほど広く伝えられるかという発信力の問題ですね。

>国家の戦争死そのものの顕彰をやめる
>遺族会が仏式でやればいいことです。

「遺族会」という集団が、信教という個々人の内面的価値観に属するものをひとくくりにしてしまうことが変だとは思われませんか? 国家であれ、集団であれ、個人の内面を集団に統合しようとするのに、私は反対です。現実問題として「仏式」という一般的抽象的な祭祀様式は存在しませんので、この点でもお説には大きな欠陥があるのですが、いまはそれは置いておきます。私は仏教であれ、神道であれ、何らかの特定の宗教祭祀様式を、制度として集団が個人に強制するのが間違いだと思います。

無宗教の国営追悼施設には個人の宗教信条や心情を規制・誘導するなにものもありません。追悼しようが慰撫しようが讃えようが顕彰しようが、遺族の自由です。国はその場を提供するだけです。この案には色々な批判もあるでしょうが、少なくとも「遺族会が仏式でやる」という案よりは問題が少なくて支持されやすいと思います。