慰安婦は、法的にいえば「軍従属者」の身分だった。厚生省の答弁によれば、戦場死した慰安婦は準軍属の扱いを受けており、遺族年金が支給されているそうだ。この扱いは従軍看護婦と同じである。
ここでは、従軍看護婦と従軍慰安婦を比較してみよう。
- 従軍慰安婦は正式名称ではない。従軍看護婦も正式名称ではない。
- 慰安婦制度は軍の要請にもとづいている。従軍看護婦も軍の要請にもとづいている。
- 慰安婦は軍と民間雇用者の二重管理だった。従軍看護婦も軍と日赤の二重管理だった。
- 慰安婦は業者から給料をもらっていた。従軍看護婦も日赤から給料をもらっていた。
- 戦場死した慰安婦は準軍属待遇を受けている。戦場死した従軍看護婦も準軍属待遇を受けている。
ここまでは同じなんだが。このあとが異なっている。
- 慰安婦の存在は、なるべく秘密にされた。
- 従軍看護婦の存在は、称揚・讃美され、女子の鑑とされた。
- 従軍看護婦は正しく従軍看護婦と呼ばれていた。今も呼ばれている。
- 慰安婦は従軍慰安婦と呼ばれなかった。今もその名称に抵抗する人がいる。
なぜちがうのか。
皇軍兵士の威信をそこねる。留守家族に申し開きが立たない。売春防止に取り組んでいた政府の立場がなくなる。公序良俗に反するおこないを、官が奨励できない……などなど。どれも、官の一方的な都合だった。
私は思うのだが、生き残った慰安婦には国家補償をすべきだ。
朝鮮人慰安婦にも、日本人慰安婦にも、国籍を問わずにだ。
日本人慰安婦は自らを恥じて姿を現さないとよく言われる。奥ゆかしい日本人慰安婦に較べて、朝鮮人は恥を知らないのか、などと血も凍るような書き込みをネットで読むことがある。ウソである。
戦後の国会では、慰安婦など元軍従属者が国家援助を陳情していた。けれども、冷たい政府の姿勢と世間の好奇の目に失望し、耐えられなくなって、次第に語らなくなってしまったのだ。
語らなくなったのは慰安婦だけではない。兵と同じに苦労したのに、何の補償も受けられない軍属や軍従属者も同じ事だ。軍属にもいろいろあるが、かわいそうなのは実戦部隊をサポートした軍属だ。
「輜重(しちょう)、輸卒(ゆそつ)が兵隊ならば、チョウチョ、トンボも鳥のうち」
こうさげすまれた輸送兵よりもなお、輸送支援軍属は身分が低かった。攻撃一辺倒の日本軍は、兵站部隊、つまりロジスティクスを軽んじたのだ。輸送兵は兵隊の身分だったが、軍属は兵隊にさえなれない存在だった。権利を主張しようとしても、「軍属ごときが生意気に何を言うか」とさげすまれるのがオチ。彼らはそうあきらめて、語らなくなってしまったのだ。
唯一、誇り高く自らを語れる従軍看護婦だけが声を上げ続けることができた。そしてその結果として、彼女たちにだけ、一時金が支給された。しかし、彼女たちでさえ、それっきりである。あとは感謝状一枚と記念品。それだけ。
日本政府は、民間人には徹底的に冷たい。日本人慰安婦が語らなくなったのは、自発的意志によるのではない。彼女たちに沈黙を強いたのは日本政府と日本社会である。それを「美徳」だなどともてはやす日本社会の現状に、私は深くためいきをつかざるを得ない。
■「慰安婦への国家補償は日韓基本条約で終わっている」という主張について
日本政府は戦争責任と賠償について、原爆訴訟やシベリア訴訟においてつぎのような主張を展開している。
- 賠償請求権の消滅というのは、「外交的保護権」が消滅しただけで、「個人の請求権」まで消滅したわけではない。
- 「個人の請求権」は放棄できないものだから、「国民の請求権」は消滅していない。
これはどういうことかと言うと、たとえばシベリア抑留はソ連の不法行為ですから、ソ連が賠償責任を負っています。ところが政府は抑留者の同意を得ることなく、請求権を放棄してしまいました。このような場合は賠償責任が、本来のソ連から日本政府に移るというのが国際法の定めなのです。そこで被害者は日本政府に個人賠償請求権を奪われたと思って、ソ連政府に代わって賠償してくれという裁判を起こしたのです。
すると、日本政府はこう主張しました。「個人の被害は個人の被害、国は関係ない。ソ連に対する請求権は消えていないから、各人で請求すればよかろう」と。「個人請求権をも放棄するように書いてあったとしても、それは放棄できないものを放棄したということで、無意味な記述だから、どうぞソ連に請求してください」と。また原爆訴訟では「講和条約に原爆被害のことは書いていないのだから、個人請求権はなくなっていない。だから賠償は米国政府に求めなさい」と言いました。
こういうことなら、元慰安婦の被害だって日韓条約に書いていないのだし、個人請求権はそもそも消滅させることができないというのですから、日本の賠償責任はしっかり残っているのです。日本政府は自分で言ったことぐらい守ったほうがいいと思いますが、いかがお考えになりますか?
同じ政府が韓国人など外国人から個人請求されると、180度正反対のことを言う。「慰安婦への国家補償は日韓基本条約で終わっている」という主張も、理屈は正反対だけど、ビタ一文カネは出さんという結論は、一緒。まあ、理屈とピップエレキバンはどこにでもくっつくものだ。理屈のひねり出し具合、そこに品性、品格、道義性というものが表れる。
それに、日韓条約で決まったのは、日本が支払いの「義務」をまぬかれるということだけ。賠償すべき根拠は自然債務として存続している。義務なき行為として自発的に賠償することには、何の問題もない。
仮に慰安婦が請求主体として法的に不適格だというのなら、我々日本国民が主権者として政府に賠償金支払いをうながせばよいのだ。
<参考>昭和41年12月7日東京地裁原爆訴訟判決。
(判例時報355号)
「対日平和条約第19条にいう『日本国民の権利』は、国民自身の請求権を基礎とする日本国の賠償請求権、すなわちいわゆる外交的保護権のみを指すものと解すべきである。
…請求権の消滅条項およびこれに対する補償条項は、対日平和条約には規定されていないから、このような個人の請求権まで放棄したものとはいえない。
仮にこれを含む趣旨であると解されるとしても、それは放棄できないものを放棄したと記載しているにとどまり、国民の請求権はこれによって消滅しない。
したがって、仮に原告等に請求権があるものとすれば、対日平和条約により放棄されたものでないから、何ら原告等が権利を侵害されたことにはならない」
■「日本はすでに義務を果たした。これ以上のことをする必要はない」という主張について
たとえ話をしよう。ある人が破産して免責を受けたとする。この人の債務(この場合は借金だな)は法的に決着がついた。借金を返す法律上の義務はなくなり、債権者は請求権を失った。しかし、なくなったのは法律上の権利や義務であって、なくなっていないものが二つのこっている。
一つはかつて借金したという事実。法律的には「自然債務」という。返す義務はないけれど、返すのはかまわないし、返した金を受けとることに何の問題もない。もうひとつは道義的責任。これも法律的に言えば、特に責任を自覚しなくて良い。あくまでも道義的なものだ。
なので「どうしてそこまでしなければならないのか」と問われても、「しなければならない法的責任はない」としか言いようがない。
私の考えを全部読んだうえで、なおも「どうしてそこまでするのか」と問う人に、何が言えるだろう。世の中には色んな人がいる。
従業員に威張り散らしていた社長が破産して、未払い賃金や従業員から借りた金までチャラにして、しかも突然の倒産に露頭に迷う従業員をしり目に、事前に周到に名義移動していた資産でゆうゆうと暮らしているくせに、何ら悪びれたそぶりもしない人がいる。
法的に間違ったことはしていませんけど、何か? という人もいるだろう。でも私はそういうのが許せんと思ってしまうのだよ。それが自分の身内なら、意見のひとつも言ってしまうタイプなんだよ。品性とか品格と言っているのは、そういうことだよ。
■「韓国政府の対応を批判すべきだ」という主張について
韓国政府の行為については韓国国内で昔から批判がなされている。私が韓国国民なら自国政府を批判するだろう。元慰安婦に対しては、韓国政府が補償を実施中だ。
元慰安婦が日本に賠償を求めているのは、民事事件はお金をよこせという形でしか訴えができないからだ。金めあてじゃない。
自分達は好きで慰安婦になったわけじゃないと認めさせたいだけだ。名誉の回復を求めているのだ。それくらい、認めてあげなよ。私はそれ以上のことをすべきだと思うがね。私は日本国民だ。だから日本の政府の冷たさに腹がたち、文句つけているのだ。
韓国政府は1998年に「生活安定支援法」をつくり、元慰安婦に一時金3150万ウォンと500万ウォンを支払い、別に毎月50万ウォンを支給している。韓国政府の当初原文では、日本が賠償しないのでその代わりに支給するとなっていた。その後、国内からの批判でその文言がはぶかれたが、主旨は変わっていない。