靖国神社と「偽官軍」

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戊辰戦争を戦った維新軍の中に、山国隊という民兵隊がありました。京都の京北町山国で結成された、神主や農民による部隊です。

この頃、維新側は民衆を取り込むために年貢半減を宣伝していました。

「官軍へ加り候村々は、当年限り年貢半納之御沙汰之有り」(官軍に加わった村々は今年に限り年貢を半分にする)

山国ではこの官軍募兵布告を信じて、借金をして戦費を調達し、手弁当で戊辰戦争に参加したのでした。83名が参加し、戦死4人(行方不明1人含)、病死3人という被害を出しながら、仙台まで転戦しています。

地元ではいまもその業績をたたえるお祭りが続けられていますが、じつは山国隊の戦死者は靖国神社に祀られていません。山国隊は偽官軍とされたからです。

錦の御旗と共に京都に凱旋した山国隊なのに、なぜ偽官軍とされたのかといえば、「年貢半減」という官軍のウソが原因です。彼らを官軍と認めれば、「年貢半減布告」をホンモノと認めなければならなくなります。そんな約束など守る気のない維新側は、嘘をついたのは自分たちではなく山国隊の方だと言うことにしてしまったのです。だまされた農民たちは、山林を売り払うなどして借金を返済しなければなりませんでした。

しかし山国隊は凱旋できただけマシでした。多くの幕府軍を帰順させる功績を挙げた高松隊など、あまりに活躍がめざましかったので、維新側はいまさら約束がチャラとも言えません。そこで全員を偽官軍として捕らえ、処刑してしまったのです。

もう少し時代を遡れば、朝廷の勅命を受けて長州を攻めた官軍戦死者が祀られていません。当時は賊軍であった長州が、後に維新政府を牛耳って歴史を改ざんしたからです。

禁門の変の死者は、官軍側と賊軍側が共に祀られています。はじめは御所を攻撃した賊軍側である長州兵だけが祀られていたのですが、朝廷を守護していた会津側が祀られないなんて、あまりに本末転倒、ひどいではないかということで、大正時代に合祀されたのでした。

こんなふうに、靖国神社というのは時の権力者の都合で合祀基準をコロコロ変えているので、「戦死者を祀っている」とばかりも言えないし、「天皇のために戦死した霊を祀っている」というのも不正確です。

靖国神社を考えるならば、明治維新とは何だったかというところまで話が及んでしまいます。やはりここはスッキリした追悼基準を新たに設け、無名戦士の墓を追悼施設とするしかないでしょう。

(千鳥ヶ淵は無名戦士の墓というより無縁仏の納骨堂ですから、諸宗教・諸宗派合同のちゃんとした特別の奉納式を執り行って、無名戦士の墓として昇格させる必要があると思います。)