「軍命令の証言」の論理 沖縄強制集団死

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強制集団死の被害者が軍に死を強制されたという証言が「援護法めあての偽証だ」という侮辱的言辞が、あとを絶たない。これを最初に言い出したのは曾野綾子だと思うが、梅澤氏もそういうあつかましいことを裁判で述べている。

しかし「援護法を適用してもらうために軍命令をねつ造した」という憶測には、論理矛盾があるように思う。強制集団死の被害者はたしか「戦闘協力死」ということで援護法の対象になっていたのではなかったか。日本軍の戦闘の邪魔にならないよう、自発的に死を選んだ、という解釈だ。(*末尾参考引用参照)

政府の立場に立てば、強制的な死ではなくて、自発的な死であってこそ、援護法適用が相応しいことになる。軍に自決を強制されたという証言は、自発的な戦闘協力死という援護法適用の条件を、自ら否定することになり、証言者にとってむしろ不利だったのではなかろうか。援護法適用に必要な条件は「軍の関与」であって、「軍の命令」ではないのだ。ならば「軍命令」を強調することは、曾野綾子たちの言い分とは逆に、むしろ援護法適用の障害になるように思う。少なくとも論理的にはそう考えざるを得ない。曾野綾子たちの見方は事態を逆に描いており、論理として顛倒しているのではあるまいか。

援護法適用にあたっては論理的整合性ばかりが優先されたものではなかろうから、これはあまりに条理に走りすぎた見方かも知れないが。

強制集団死ではなく、逃亡やスパイ容疑で処刑された住民も多いが、その人たちは援護法適用にあたって、どういう扱いをされているのだろう。「処刑」ではなく、別の名目で適用されているのではなかろうか。もしもそうなら、援護法適用のためにはむしろ「軍による強制」というのは不都合だったことの傍証になるのではなかろうか。

*参考引用

防衛庁の防衛研究所戦史室の記録は、「この集団自決は、当時の国民が一億総特攻の気持ちにあふれ、非戦闘員といえども敵に降伏することを潔しとしない風潮が、きわめて強かったことがその根本的理由であろう。……小学生、婦女子までも戦闘に協力し、軍と一体となって父祖の地を守ろうとし、戦闘に寄与できない者は小離島のため避難する場所もなく、戦闘員の煩累を絶つため崇高な犠牲的精神により自らの生命を絶つ者も生じた。」

集団死,集団自決を「崇高な犠牲的な精神の発露」とするのは,大日本帝国の末端の沖縄県の,標準語も話せない二等臣民という前提で,沖縄住民が、本土の「大和民族」として認められるため,兵士の邪魔にならないように、率先して自決したと考えたいからであろう。

鳥飼行博研究室HP 沖縄戦での住民集団死・集団自決
http://www.geocities.jp/torikai007/1945/kerama.html