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以下に紹介する話は、実話である。
『国保崩壊』(矢吹紀人、相野谷安孝著、あけび書房)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4871540448/qid%3D1150218172/503-5704273-4571948
という本の内容だ。
最後に紹介する手紙(遺書)もその人が実際に書いたものであり、本当にあったことだ。
1992年(平成4年) 北九州小倉市に住む武田正夫さんと、幸枝さんは結婚をした。友人によれば幸枝さんのことを「整った顔立ちのかわいい女の子でしたよ。何回か二人でたずねてきて楽しそうにしてたけど、わりとおとなしい人でね。ただ、甲状腺の病気があるということだけはきかされてたかな。」
と言っている。
1992年(平成4年)は、まだ日本が良い時代だった。景気も良かったし、未来に希望があった時代だった。山形新幹線が開業し、スタジオジブリ宮崎駿監督の「紅の豚」が上映。歌では、バブルガムブラザーズの WON’T BE LONGがヒットしていた。そして「部屋とYシャツと私(平松愛理)」がヒット。
武田正夫さんと幸枝さんは、住友金属の下請け会社に勤務していた。結婚後はその会社の社宅で暮らしていた。
ところが、1998年の暮れ、結婚生活6年目。住友金属のリストラのあおりをうけて正夫さんの勤めていた会社が倒産してしまう。2人が住んでいた社宅は競売に出され、2人はその日の暮らしにも困るようになっていった。
<竹中平蔵主導の橋本内閣の改革の悪影響の為に倒産続出>
この1998年というのは橋本内閣が6大改革を行い、金融ビッグバンという愚行を行い、大会社が次から次へと倒産した年であった。今日までつづく、日本国民の生活を犠牲にした「小泉構造改革」のさきがけとなるものであった。
生活費は2人でともにアルバイトをして稼ぎ出していた。だが大きな問題は保険証だった。
<年間40万円の保険料>
貧しいふたりに、給料の良かった前の年の収入を基準に保険料が算出される。2人に課せられることになった保険料額は、年間40数万円。その金額は、新しいマンションの賃貸料や車のローンなどをかかえながらアルバイト生活をする2人にすれば容易に支払えるものではなかった。正夫さんはその金額を知ったとき「目の前が真っ暗になった」と友人に語っていたという。
<幸枝さんにとって大変な事態>
持病のある幸枝さんにとって医者にかかれなくなるとなれば、大変な事態になるのは明らかだった。幸枝さんは病気をもっている身だったので長い時間働けない。そのため正夫さんのアルバイト代だけが頼りとなれば、生活するだけで精一杯だった。
<保険証を入手して生きていくために泣く泣く離婚>
困りはてた2人が考え出した結論はなんと離婚だった。
収入のなかった幸枝さんがひとりになれば、幸枝さんだけは安い保険料ですむかもしれないと考えたのだ。
好きあって一緒になったのだから離婚する気なんて全くなかった。しかし、保険証を手にいれて死をまぬかれるために愛する2人は泣く泣く離婚を選択せざるを得なかった。離婚をすることは、幸枝さんは「いやだ いやだ」と泣いていやがっていたという。
そして、幸枝さんは新たな念願の健康保険証を手にいれた。が、それまで約1年間、病院へ行くのをがまんしていた。自らもアルバイトをし、体を酷使していた。そのため、ますます病状は悪化していた。
<本当は支払わなくて良い2年前の保険料を、北九州市に言われて誓約書を書かされ支払い義務を負う>
そんな幸枝さんに、北九州市はどんな仕打ちをしたか。それまで支払っていなかった保険料を支払えと要求したのだ。支払っていなかった保険料は2年すぎれば無効で、支払わなくてもよい。市役所はそのことを知らせなかった。それどころか市役所は幸枝さんに、「誓約書を書いて支払ってください」と告げたのだ。
支払わなくてもよい保険料でも、誓約書を書いてしまえば、過去にさかのぼって支払義務が発生するという仕組みが新たに導入されていたからだ。
もともと保険料が高すぎて支払えなかったので離婚したのだ。その彼女に、過去の分まで支払う余裕があるはずがない。それなのに、病身であまり働けない彼女に対して、本来の保険料にくわえて分割で過去の分まで支払えという。結局、彼女は9千円だけを支払ったがそのあとの分割支払いはできなかった。
<市民を死に追いやる北九州市役所>
結局、幸枝さんは保険証をとりあげられた。幸枝さんは病院窓口で医者代の全額を支払わないと治療が受けられなくなった。保険料も支払えないのに、高い治療費を支払えるはずがない。幸枝さんは誰にも自分の重病を言わず、診療も受けず我慢しながら、毎日を過ごす。そしてついに2001年3月30日に自宅で動けなくなり、救急車で入院し、わずか3日後の2001年4月2日に息を引き取る。まだ32歳の若さだった。
<全身が病気>
病名はバセドウ氏病、糖尿病、胃潰瘍、肺炎、全身出血。死因は衰弱死だった。文字どおり全身がぼろぼろだった。幸枝さんの死後、家の中を泣きながら整理していた正夫さんは幸枝さんがつけていた家計簿のなかに一枚の紙片がはさまれているのに気づいた。死の直前に書かれた遺書だった。
<正夫さんへ幸枝さんからの手紙>
正夫様
いつも具合がわるくて
ごめんなさい。
正夫ちゃんには
いつも迷惑ばっかりかけて
ごめんなさい。
今の幸枝の体は、
いままでで
一番つらい状態です。
自分ではどーしようもないくらいです。
だからインスリンうちました。
もし、正夫ちゃんが、かえってきて
幸枝がへんになっていても
もうあわてないでください。
はっきりいってこんな風なら
「死んだほうが楽かも」
と思っています。
結局迷惑かけっぱなしでごめんなさい。
いつまでたっても元気にはなれないし
正夫ちゃんにはもうこれ以上めいわくかけたくないの。
何もしてやれん。
病院にも行けない。
手術もできない。
普通に元気にでいいのに。
何でうまくいかんのやろうね
注射打っても
いき続けて
私っていったい何者?
人間じゃないよ
これからの長い人生
ずっとこのままじゃ気が狂うよ。
どんたく楽しかったよ。
ありがとう。
私の出会った人の中で
あなたが一番いい男でした。
※幸枝さんが最後にみたどんたくとは福岡のお祭りのことである。彼女が死んだのが4月2日で、どんたくが例年5月3、4日ぐらいにやるから、彼女は約1年前の祭りのことを「どんたく たのしかったよ ありがとう」といっていたのだろう。
以上は実話である。
<自公の「改革」とは何か>
幸枝さんは、自民公明連立政権がいまも推進している構造改革の犠牲者である。北九州市は、構造改革の優等生だった。それは小泉改革の目玉である「構造改革特区」に一番乗りしたことでもわかる。構造改革特区とはなにか。税金や保険料を値上げし、取立てを厳しくして、しかも同時に徹底して福祉をけずり、浮いたカネを「市街地開発」という名で大企業に還流させてやる、そういう行政システムだ。
どんなに市民が苦痛にのたうっていようが、救いの手を差し伸べない。病人からふとんをはぐような行政。これが「痛みのともなう改革」であり、多くの人たちがよろこんで「純ちゃーん」と迎えた男がやってきたことだ。
こんな政治がいいと、みんなは本当に思っているのだろうか。命落とすな、自公を落とせ! 心から、私はこう思う。
今回は小野寺光一さんから情報を提供いただきました。
http://www.mag2.com/m/0000154606.html