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君が代訴訟、都に賠償命じる
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この判決が言いたいことはこうだ。
- 学校が教師に職務命令として日の丸・君が代に起立を求めるのは、許される。
- しかし、教師がそれに応じないからと言って、不採用の理由にしてはならない。
いわば、こういうことだ。
- ドライバーが交通違反をしないように法で命令することはよい。
- しかし軽微な一時停止違反ぐらいで免許を取り上げてはいけない。
ここで「ひのきみ不起立」が軽微な一時停止なのか、それとも飲酒運転ぐらい悪質な行為なのか、価値判断が分かれると思う。裁判所は軽微な違反だと認定したわけだ。
教師は思想・信条の自由を保障されている国民であると同時に、全体の利益の奉仕者たる公務員である。だから比較されるべきなのはつぎの2項であると思う。
- 「ひのきみ起立」拒否で失われる社会利益
- 採用拒否で失われる社会と個人の利益
さて「ひのきみ起立」拒否で失われる社会利益とはなんだろう。せいぜいが「式次第の円滑な進行」と「教師の規律」であろう。いや、教師は自分が立ち上がらなかっただけで、全体の式次第を妨害したわけではない。ならば、「決めたことには従え」という規律=形式主義が揺らぐだけだ。
他方、採用拒否で失われる社会的利益には、「思想信条の自由」、「個人の尊重」という憲法原則がある。また個人の人生選択や経済的不利益はとてつもなく大きい。
最近では上からのしめつけが厳しいから、校長にとって日の丸・君が代を形式的にこなすのが絶対的なノルマになっているらしい(これが今日の日記のタイトルです)。こんなもののために大切な憲法原則をないがしろにされてはたまらない。
ならば、結論は明らかだ。
だから裁判所は一方では学校に対して、教師に起立を命じる権限を認めるけれど、他方ではその命令が実行されないことを理由に採用拒否してはいけないと判断した。まあ、優等生の回答みたいなものだ。
だけど、本当にそれでいいのだろうか。
学校は、どうしてある行為を教師に命令する権限を与えられているのか。学校にとってそれが必要な場合にのみ、認められているのではないか。学校教育にとってまったく無関係なこと、たとえば教師に都庁の税務課の仕事を命ずる権限は、校長にはない。「ひのきみ起立」が学校教育にとって必要不可欠ならば、命令は正当化されよう。しかし学校教育にとってさほどの意味もないなら、その命令も命令の根拠たる学習指導要綱も改善が求められねばなるまい。
つまり命令は単に官僚的に下されるべきではなく、その命令が公共の利益にかなっていてはじめて有効であるとするならば、では学校の果たすべき「公共の利益」とは何か。いうまでもなくそれは「子どもたちが教育を受ける利益」に他ならない。
「教育」とは、子どもたちに対して、一方的・強制的に価値を教え込むことではないはずだ。子どもたちに思想・信条の自由を教え、自立し、かけがえのない価値をもった一人の人間として、自信を持って生きていくように教えるのが、教育ではないのか。
むろん社会生活において規律が不可欠なのは言うまでもないが、規律というのは、多様な価値観が併存するなかでこそ求められるものであって、ただひとつの価値観しか認めないのは規律とはいわない。それは単なる強制でしかない。
「ひのきみ起立」を拒否した教師だって、規律はずれの放恣な自由をわがままに唱えているのではない。そうではなく、子どもたちに単一の価値観である「ひのきみ」が強制されている中にあって、「子どもが教育を受ける利益」を守るためには、教師はむしろ教育者の使命として拒否せざるを得ないと考えたのだろう。大勢が上に順応する中で、憲法の価値観に忠実であろうとする、むしろ強い内面的自己規律にもとづく行動だったと思う。
その行動が日本国憲法の立場からとらえてどうなのか。正しいのか、間違いなのか。裁判所はそこを判断すべきだったと思う。
「日の丸の色、黒いノルマの日」←回文