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私のところにはめったに「ネトウヨ」が来ませんが、ブログでネトウヨ談義が交わされていまして、とても参考になったので、受け売り半分、自分の考察半分でまとめてみます。
■ネトウヨは完璧な日本が好き
ネトウヨは日本の負の歴史を認めません。大日本帝国は無謬であったと主張してやみません。日本は「汚れなき我が日本」であり「美しい国 日本」なのです。偉大な日本は韓国や中国に負けることなどありえないので、負けているように見えているとすれば、それは韓国や中国の汚いやり方のせいに違いないし、国内にいるなまけ者や反日分子のせいなのです。
彼らが社会的弱者やマイノリティを攻撃するのは当然です。まさに社会的弱者やマイノリティは「完璧な社会」にいてはいけない存在です。それらの存在は「汚れなき我が日本」を汚すものですから。
だから出て行って欲しいと思ったり、その存在を認めなかったり、非常に冷淡であっても不思議ではない。
しかし、現実には存在している。
あってはならないものが存在してるならば、それらをどうすればいいのか。問題があるのは日本じゃない、ということにすればいいんです。問題があるのは、社会的弱者やマイノリティたちが非常に醜悪で汚い、歪んだ心を持っている、ずるくて、醜い、弱い、怠け者な存在だからだってことにすればいい。
ネットの書き込みにも非常に強くその傾向が現れていると思います。
■ネトウヨを生んだ「けがれ感覚」
彼らの情念の底部には、古くからの「けがれの感覚」が息づいているのではないでしょうか。彼らが批判対象を過剰に憎んだり、攻撃したりする語気の荒さ、その口調は、もう批判の息を超えています。それは批判ではなく、けがれたものに対する嫌悪感からくるもののように思えてなりません。
汚れているのだから、「失敗者」には同情しないし、むしろ脱落者としての侮蔑は当然で、それらを侮蔑したり攻撃したりすることは「純血者=穢れなき者」の特権であり、自分達は彼らとは違うという優越にひたっているようにさえ思えます。ネトウヨがやたらと日本人としての純血にすがり、純粋を求めるのも、ここに由来するのではないかと思います。
ゼノフォビア(外国人嫌悪)、自己責任論、歴史修正主義、攻撃性……これらをつなぐカギが、けがれ感覚なのではないかと。
■ネトウヨ心理の病理的分析
さて、ネトウヨにとって、社会的弱者やマイノリティが何かを要求するなどありえないことです。なぜなら本来は存在してはならないし、ましてや全ての問題は「社会的弱者やマイノリティ」自身のせいなのに(自己責任論が大好きなのもこのあたりが理由でしょう)図々しくも何かを欲しがっているんですから。
だから媚びへつらい、恵んで下さいとばかりに懇願するなら(地方選挙権が欲しければ帰化しろ、生活保護が受けたければ一切の贅沢はするな等)、ネトウヨの優越感を満たしてくれるので、好意的に扱うのでしょう。
このように日本や、それと妄想的に一体化した自分について誇大な自己評価を抱き、不当に他者を否定して、妄想的に優越感を抱く心理は、パワハラと共通しています。
パワハラの動機は、自分自身もしくは会社と妄想的に一体化した自分について誇大な自己評価を抱き、不当に他者を否定して、妄想的に優越感を抱く心理からくるものだからです。
パワハラ心理は、いわゆる「幼児的万能感」に近いものがあると考えられています。母親にお乳をねだって大声で泣くと、その要求が必ず聞き入れられると乳幼児は思っています。これは生育歴の中では母親との一体感を可能にし、自己肯定感を育んで、アイデンティティを確立するのに不可欠の過程だとされています。しかし幼児期を脱してもなおそのような心理を克服できないで、優越的な自分の求めに他人が従うのが当然だという心理を持続している場合、なんらかの心理的防衛機制的反応が考えられるのだそうです。
そういえば、ネトウヨは自分が攻撃的だと思っていません。自分の放つ悪罵は、反日国家や反日分子の攻撃に対抗する、防衛反応に過ぎないと信じ込んでいます。彼らがどれだけ日本を純潔化させたいと願っても、外国人や、老人や、障害者や、母子家庭や、生活困窮者などをこの国から無き者にすることはできません。できないのならば、「純粋な日本」と「純潔な自分」を防衛するには、常に彼らを批判、非難、攻撃の対象とし、異分子扱いするしかないわけです。
結局は“自己肯定感”が足りないのです。本来は、それは生育歴の中で、パーソナルな次元で求めるべきものなんです。「母親との一体感」から自立して、地に足の着いたところから自分の人生で感得していくべきものなのに、それが欠けていた。そこでいまだに満たされない「母親との一体感」を仮想日本に仮託して、自分はその一員なんだという全体性への一体感によって、かりそめの自己肯定感を得たいということなのかもしれません。
■ネトウヨは理想主義の変形
ネトウヨは日本について、あるべき理想の状態を仮想し、それと相容れない存在を愚劣なものとして排除しようとし、敵対的に振る舞っている。するとネトウヨは一種の理想主義と言えますね。
いや、理想主義などという立派なものではないとの反論もあるでしょう。だってネトウヨは人間の尊厳を汚しているのだから。
それはそうなんですが、理想の持ち方が違っているだけではないでしょうか。私たちはネトウヨが人間を貶め、汚していることに嫌悪しています。それと同じように、ネトウヨは私たちについて、日本だけを不当に貶め、伝統や尊厳を汚しているとして嫌悪しているんです。
私たちはネトウヨがあまりにも権力に対して無防備であることをもって、無責任だと感じています。しかしネトウヨは私たちを、あまりにも外敵に対して無防備であるとして、無責任だと非難しています。水と油ですが、彼らには彼らなりの論理があり、確信があると思います。彼らは彼らなりに理想を目指しているんですよね。
理想主義は青年の特徴でしょう。しかし理想主義というには、彼らは偏頗で視野が狭いと私たちは思っていますが、なに、理想主義とは元来そういうものだし、あちらも私たちを同じように偏頗で視野が狭いと思っています。そして意見が相容れない者に対する過剰な反応は、私たちだって誉められたものではありません。
■愛すべき「彼ら」にいかに対するか
こう振り返ってみると、彼らと私たちの違いは、環境だけなのかも知れません。時代の様相が違っていれば、彼らは私たちであり、私たちが彼らになっているかも知れませんよ。
そこで私は思うのですが、彼らをいくら非難し、見下げ、罵倒しても彼らは変わらない。すると問われているのは、私たちの問題設定ではないでしょうか。私たちが、彼らの心の琴線に触れるような言葉と論理を持ちえていないこと。真の問題点はここにあるのでは。
ブログに来られるみなさんに教えられて、私はこのような感想をもちました。
あとは余談です。
ネトウヨは日本について、あるべき理想の状態を仮想し、それと相容れない存在を愚劣なものとして排除しようとし、敵対的に振る舞っていると最初に述べました。これって外面的にはマルクス主義者の振る舞いと似ていませんか。あるべき理想の状態(搾取なき世界)を仮想し、それと相容れない存在(ブルジョアジーやその味方)を愚劣なものとして排除し、敵対的に振る舞う。
しかし本当のマルクス主義者が自分より強大な存在と戦おうとするのに対して、ネトウヨはそうではありませんね。いま「本当の」と限定したのには、理由があります。マルクス主義者のように振る舞っていても、じつは流行思想を身にまとっていただけの人もいるからです。流行が消え去ったら、一山いくらのマルクス主義者も消え去りました。中には転身してちゃっかり権力側にくっついた世渡り上手もいます。ネトウヨにもそういう手合いは多いと思います。付和雷同的に流行の振る舞いを真似ているだけですから、政権の性格や社会のありようが変われば、それに合わせて考えを変えるでしょう。
流行に合わせて思想を着替えるような器用な人は別として、しっかりしたネトウヨは、まだ見所があるのではないでしょうか。彼らは自らを、孤立しつつも「無責任な大衆社会」という強大な敵に挑んで警鐘を鳴らし続ける、革命家のように感じているのではないでしょうか。こう考えると、なんだかネトウヨが、愛すべき存在のように思えてきましたよw