極論日記(2) 悪の民族性なんかあるのだろうか

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1163519544&owner_id=12631570

ものごとはパクリから始まる 極論日記(1)

独新聞が「パクる人は中国人」説!華人社会、単なる例示にしても暴論と反発―ドイツ * 中国で大量のコピー商品が製造されている現実を引き合いに出して、ドイツの新聞が自国のテレビ番組にオリジナリティがないと揶揄したのです。それに対して中国を引き合いに...

で、パクリは日本人のお家芸でもあったという日記を書きました。

中国が台頭する以前、コピー大国といえば日本のことだったんです。「何でもかでも欧米の文化を模倣して、日本の文化を高めようとみんなが懸命になっていた時代」(『模倣の時代』板倉聖宜)がかつて存在したことを忘れて、同じことを今しようとしている国を見下げてはならないと思います。

日本の二輪自動車(バイク)は工業先進国であった英国やドイツ、そして米国のバイクを模倣しながら長足の発展を遂げてきました。

「模倣」とは今で言う「コピー」なのですが、当時はそれを「トレース」と言っていました。開国以来、習熟を得意とする日本では、飛行機から二輪車まで生産するにはコピーした方が手っ取り早かったのです。
*http://waga.nikkei.co.jp/vehicle/bike.aspx?i=MMWAh2005026112007

こういう流れの中、mixiニュースから来られたのりたまさんとやり取りするうち、これはもう一つ日記を書かなきゃなあと思った次第です。

■悪の民族性というものがあるのだろうか

のりたまさんはこうコメントしています。

悪徳が民族性に因るものか、特定の悪い考え方に毒されたことに因るのかは区別が付けづらい

私は首を傾げてしまいました。「悪徳が民族性に因る」などということがあるのでしょうか。私は人間みなちょぼちょぼ、大同小異だと考えています。特定の民族性に悪が宿るとは考えていないんです。

【播磨は悪の国だった】

もっともある民族に特有の振る舞いがその民族内部では当然とされるのに、他の民族に理解しづらいせいで悪徳とみなされる例はあるようです。本多勝一の『アラブ遊牧民』を読んだときそう思いました。

日本についていえば、江戸時代の日本人の性的放恣に、朝鮮人や中国人は嫌悪を覚えたと言います。けれど性的倫理観なんて時代により変化するものですし、それで日本人が禽獣なみの倫理観しか持たない劣等民族だとみなされたんじゃたまりませんよね。(そう言われていたんです(^^;))

中世の「播磨鑑」には、“他国人から「播磨人は盗賊の気質」と言われている”と書いてあります。そんなことを言われているとすれば、播磨人のはしくれとして心穏やかではありません。が、いまこんなことを言う人はどこにもいません。播磨人の「民族性」が変化したのでしょうか。

いえ、これは「播磨人の気質」という特別なものがあったのではありません。気候穏やかで土地が肥えているから物成りがよく、中央に比較的近くて交易により経済的に豊かだった播磨は、中央政界の小さな変動がたちまち地域政治に大きく波及する地域でした。そこで中央の派閥争いが飛び火した利権争い・権力争いで小競り合いが絶えなかったのです。親が子を殺し、子が親を殺す戦国時代が、播磨にはいち早く到来していたのです。

つまり播磨人の気質と見えたものは、どこの地域であっても条件次第でそうなるものだったのです。民族性ではなく、歴史的・地域的要件が大きく作用していたのでした。

■日本人は人肉を食っていた

また過酷な歴史環境におかれたせいで、集団として倫理観が低下してしまう例も見受けられます。『ブリンジ・ヌガグ──食うものをくれ』(コリン・M.ターンブル)という飢餓の実態を描いたルポで、人間倫理がすさまじく崩壊した地域があることを知りました。親が子供を殺し、一掴みの食料を巡って兄弟同士が殺し合う。ひどいものですね。

これも民族性というより環境のせいで、日本にも同様の歴史がありました。江戸時代の飢饉のときには人肉市場がたったことが「後見草」とか「天明卯辰簗」という同時代記録に記されています。「後見草」を書いたのは有名な杉田玄白です。

或は小児の首を切り、頭面の皮を剥ぎ去りて焼火の内にて焙りやき、頭蓋のわれめにへらさし入れ、脳味噌を引き出し、草木の根葉を交ぜたきて喰いし人も有しと也。又或人の語りしは、其頃陸奥にて何がしとかいへる橋打ち通り侍りしに、其下に餓たる人の死骸あり、是を切り割き股の肉籠に盛り行く人ある故、何になすぞと問ひ侍れば、是を草木の葉に交へて犬の肉と欺て商ふ也と答へし由。

ううう、こんな国はいやだなあと思います。でもこれが日本だったんです。

■中国人はなさけない民族なのか

ところで中国は世界の四大文明の中で、環境破壊に至らずに文明を保ってきた唯一の地域です(近頃はかなり苦闘しているようですが)。それだけの知性と洞察力や民族的統一力に勝れた民族だということですね。その中国に日本はずっと憧れを抱いてきました。

明治以後のたかが百年あまりの時代、中国よりも一足早く日本が西洋文明の模倣を初めたせいで経済的・軍事的に優位に立ったからといって中国人を差別している日本人同胞を見ると、なんと長期的視点に欠けた包容力のない浅薄なことだろうと哀しくなってしまいます。

■以下は蛇足

かつて日本はこう言って中国を差別していました。

アジア人は西洋の侵略に対抗せねばならぬ。独立不羈の精神をもたねばならぬ。しかし中国人はそれがわからぬ。独立を忘れた情けない民になり果てた。かくなるうえは日本一国で西洋と対抗するのである。しかし一国の乏しい資源には限りがある。かくて中国の資源を奪って日本のために使うのは東亜の安定のために必要であり、中国のためにもなるのであるから、理に適っているのだ。それが世界の趨勢たる帝国主義なのだ。世界の流れだから、中国が抵抗するのは間違っているのだ。中国人に近代国家経営は無理である。それができるのは、唯一日本民族だけである。中国をはじめアジア各国は、よろしく日本の足下にひざまづくべし。

いま日本人の一部は次のように言って中国を差別しています。

どの国もみなすべからく世界に歩調を合わせるべきなのだ。世界に市場を開き、協調していかねばならないのだ。しかし中国人はそれがわからない。著作権など国際ルールを忘れた情けない民に成り果てた。自由経済が世界の流れだから、中国が抵抗するのは間違っているのだ。世界経済が混乱してはならないので、中国は貧しいままでよろしい。中国人に近代国家経営は無理である。それができるのは、唯一日本民族だけである。中国をはじめアジア各国は、よろしく日本の足下にひざまづくべし。

欧米はあるときは帝国主義が正しいと言い、あるときは国際協調が正しいという。どちらもその時々に自分に都合の良い理屈です。国際ルールというのは欧米が自分中心に作った人為の産物という側面も持っているのであって、人類の公理ではありません。

それを守らなくて良いとは言いませんが、欧米のダブスタにいつも調子よくくっついている日本は、独立不羈の精神を養いつつあるアジア諸国から、批判精神を忘れて欧米に唯々諾々と従い、そのおこぼれをちょうだいしているだけの情けない国に見えているんじゃないでしょうか。

わはは、ここはかなり極論が過ぎたかなあ。