沖縄第32軍 首里司令部に慰安婦はいた

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皆様
本日、以下の抗議文を仲井真沖縄県知事宛て送付いたしましたので、お知らせいたします。

説明板から削除された「慰安婦」についての抗議文
沖縄県知事 仲井真弘多様

第32軍首里司令部壕の説明板から削除された「慰安婦」の記述復活を求めます!!

沖縄県は、那覇市の首里城公園に設置した第32軍司令部壕説明板から「慰安婦」の文言を削った。日本軍が残した陣中日誌や米軍資料、住民の証言からも、第32軍司令部壕に「慰安婦」がいたことは明らかであり、「明確にそこに慰安婦がいたという事実を証明する文献、書類がない」という削除理由は全くの嘘である。

第32軍の司令部は、「天ノ巌戸戦闘司令部」とも言い、「天ノ巌戸戦闘司令所取締ニ関スル規定」昭和20年5月(沖縄県公文書館で「日々命令綴」として公開)には、第32軍参謀本部が出していた会報「球軍日々命令」が記される。

5月10日付け球軍日々命令107號には、5月10日に壕内の女性の撤退が開始されたとあるが、これは、米軍の攻撃を受け、司令部壕を放棄し摩文仁に撤退する命令であった。

撤退はグループごとに時間差をつけて行っている。第一梯団は「筆生及打字手(タイピスト)」の平敷町子以下20名、第二梯団は「筆生及雑使」の高●●カメ以下16名、第三梯団は徳田カメ以下26名、第四梯団は偕行社の水石一登以下13名とある。この第三梯団の女性たちは「若藤及病院」とあるが、「若藤」こそ「若藤楼」であり、「慰安婦」にされた女性たちである。彼女たちのことは、『沖縄決戦』にも、「洞窟内には・・・辻町の料亭若藤の遊女十数名が収容されていた」と記されている。彼女たちは第四坑道から出発し、輿座の第24師団(山部隊)へ移動し、引き継がれた。

この資料からも、第32軍司令部壕に「慰安婦」がいたことは明らかであり、「明確にそこに慰安婦がいたという事実を証明する文献、書類がない」というのは明らかな嘘である。

第32軍は沖縄に多くの慰安所を設置し、そこに多くの朝鮮人女性や日本人女性が「慰安婦」として入れられた。これらの事実は多くの戦記や資料で記録されているばかりか、当事者の証言もあり、否定できるものではない。

慰安所とは、「一般女性」たちを守るとの理由をあげ、いわゆる「性」の「防波堤」として用いられたものである。そもそも沖縄戦当時、沖縄県は、強くこれらの組織の受け入れを強く拒否してきた。にもかかわらず、日本軍は、沖縄県の辻遊廓の女性たちの廃業を禁止し、130か所を上回る慰安所を組織的に設置した。

慰安所は、沖縄差別を象徴する組織でもあったのである。と同時に、植民地からの女性たちを巻き込む形で強行されたアジア蔑視システムであった。沖縄差別・アジア差別の考え方を持った日本軍が沖縄で何を行ってきたのかは、他らならない、沖縄県の市町村の取り組みで明らかとなった数々の証言でも明らかである。

「慰安婦」及び「住民虐殺」の文言削除は、これまで「平和」と「人権」を掲げてきた沖縄県が取り組んできた努力を無にすることだ。

「慰安婦」にされた女性たちが尊厳の回復を求めて立ち上がって20年以上の歳月が流れたが、今、このような事態が沖縄で起こることは実に情けない限りである。沖縄県は一刻も早く元の説明に戻すよう、私たちは強く要望する。

2012年4月11日
「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクションセンター
(VAWW RAC/バウラック)