“戦略”なき集団的自衛権論議

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集団的自衛権の話が、いじましいと思えてならない。もともと議論の土台がおかしいうえ、話し合いの進路がいじましいせいで、ますますグロテスクなものになっている。

■必要なのは戦略

まず、話の土台が変だ。

「その行動は個別的自衛権で対処できる」とか「いやできない」とか、あらかじめ軍事行動に参加することを前提に、ちまちました局面に話が固定されているのはどうしたことだろう。必要なのは、戦略ではないのか。

政府がいうようにホルムズ海峡の安全が脅かされるような事態は、あるかも知れない。朝鮮半島危機が再燃するかもしれない。その想定自体は、否定できない。

それならば、危機回避のためにどんなことが出来るのか、危機に至ったとして、危機終息へのプロセスの全体像はどのようなものか、こういったことを多面的かつ戦略的に導き出さねばならない。軍事行動だけでかたがつくような単純な話ではないのは、イラクやアフガンで身にしみたはずだ。

戦略論が必要な時に、自衛隊の戦闘参加ありきを前提に、細かな戦闘場面の法律解釈ばかりしていてどうするのか。

まずは憲法にのっとって、軍事行動に参加できないという枠をしっかりとはめなければならない。その枠の中で、可能な貢献分野を定めればよい。このことは、何も特殊日本的な限界ではない。

■各国にできることとできないこと

各国には得手不得手がある。戦車はないけれど歩兵は出せるという国がある。戦闘参加はできないが後方警備ならできるという国もある。紛争には一切関与しない代わりに、和平の仲介なら任せとけという国もある。これが現実の国際社会だ。立場と能力は色々なのだ。

何から何まで全部できるのは米国くらいのもので、こんな国は例外なのだ。米国スタイルを雛形にしたら、金も命もいくらあってもキリのないことになろう。まして戦略もなしに下働きに出したら、自衛隊が馬の足にされて終わりである。

たとえば軍艦を送るのは無理だが避難民輸送なら任せとけとか、難民キャンプを一手に引き受けるとか、絶対に必要だが資金も人手も足りない分野はいくらでもあろう。これも危険な任務だが、やりがいのある仕事だから、自衛隊員もNGOも誇りを持って働いてくれるだろう。

自衛官に血を流させることばかり考えていないで、政治家ならもっと知恵を絞ってはどうか。

■議論がいじましいのは、世界平和の立場に立たないから

つぎに、考え方がいじましい。

「日本に密接に関連した国」とか、どの議論も「日本」が中心になっているのはなぜなのか。私は集団的自衛権に反対だが、「集団安全保障」には賛成だ。というか、それが日本国憲法の立場だ。

<日本国憲法前文>
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

「平和を愛する諸国民」とはなにか。私は国連を指していると解釈する。
「公正と信義」とは国連憲章を指す。

<国連憲章>
第1章 第1条(目的)
国際連合の目的は、次の通りである。
1 国際の平和及び安全を維持すること。

必要なのは国際の安全である。その中に日本の安全も含まれるのだ。国際協調主義が国連の集団安全保障の基本である。自国の都合だけを考えているかのような現今の議論は根本的にいじましく、出発点を間違えていると思えてならない。

■平和憲法を活かして国際貢献を

いずれの国も正義に立脚した国際協調主義に立とうというのが国連加盟国の一致事項であって、日本国憲法もその立場に立っている。

その世界で名誉ある地位を占めたいというのだから、自国の侵略戦争を否定するのは当然だが、それにとどまってはならないはずだ。日本も各国とともに世界平和という立脚点から集団的措置をとる行動に参加してこそ、名誉ある地位を占めることができよう。

ただし、そこに参加するにあたってどのような参加の仕方がありうるのかを、憲法にもとづいて考えなければならないのだ。

武力の行使だけが集団安全保障ではない。たとえば自衛隊はネパールの内戦が停戦したあと、毛沢東主義武装組織の武装解除オペレーションに参加したが、派遣された自衛官は全員非武装だった。これまでのエントリーでミンダナオ島の事例なども紹介してきた。

日本国憲法は世界の平和に寄与できる力を備えているのだ。これは間違いのないことだ。ここに自信を持って、一市民に何ほどのことができようとも思えないが、現今の議論を吹き飛ばすために働きたいと思う。