求められる国立追悼施設

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靖国が追悼施設として相応しいと考える人たちは以下の事実をどのように考えるのでしょう。

  • 天皇の勅旨で戦った長州戦争のときの賊軍・長州兵は靖国神社に祀られている。
  • 天皇の勅旨で戦った長州戦争のときの官軍兵士は祀られていない。
    (なぜ官軍が祀られずに賊軍が祀られているのか、明治政府を牛耳った長州藩のせいでこうなったのです。)

  • 戊辰戦争、西南戦争で戦病死した官軍兵士は祀られていない。
  • 日清戦争で戦病死した兵士は祀られている。
    (同じ亡くなり方なのに、合祀基準がまちまちです)

  • 乃木希典は戦後に自決したから祀られていない。
  • 酒巻和男中尉は戦後に自決したが祀られている。
    (合祀基準がまちまちで不合理です)

  • 対空砲の砲弾を運んでいて死亡した軍人・軍属は靖国神社に祀られている。
  • 対空砲の砲弾をボランティアで運んでいて死亡した民間人は祀られていない。
    (同じ亡くなり方なのに、民間人だけがなぜ排除されるのでしょう)

  • 対馬丸で避難中に遭難死した民間人(学童)は祀られている。
  • 朝鮮で避難中に遭難死した民間人は祀られていない。
  • 朝鮮で避難中に遭難死した朝鮮総督府の職員は祀られている。
    (民間人でも祀られたり祀られなかったり。同じ亡くなり方なのに役人は別扱い。)

  • 空襲のさなかに工具を取りに行って焼死した徴用工は祀られている。
  • 空襲のさなかに天皇のご真影を救おうとして焼死した教師は祀られていない。
    (国のためになくなった方を祀るというなら、これは不合理ではないでしょうか。)

これらの矛盾点を靖国神社のシステムは解決できません。なぜなら、一つの矛盾に対処しようとすれば同じようなケースが無数に現れるからです。そして靖国の祭神の個名性が、事態を混乱させます。靖国の祭神は一人一人、個名性をもって登録されています。一人一人の身元がはっきりしていないと神にしない──これが靖国祭神システムの特徴なのです。

どれほど愛国的・英雄的に亡くなっても、無名の市民は祀りようがないのです。しかし戦争全体の悲劇を、精密に個名性をもって精査することは不可能です。空襲の死者数でも、調査の仕方で何万というオーダーで誤差が出るのです。被害の無名性が不可避なのが、戦争という巨大な国家事業の宿命なのです。

国のために斃れたすべての人を国家の責任で追悼しようというのなら、「国家神道」という形にこだわらなくても、それはできるはずです。

「靖国で会おう」と言って戦地に赴いたのは、そこしか追悼施設がないからそう言っただけです。靖国神社がない頃に亡くなった維新の志士がそう言ったはずがないし、それでも靖国神社は彼らを祀っています。「靖国で会おう」などと言わなかった公務員や学童だって祀っています。生前の約束とは無関係に靖国は存在しているのです。

靖国存続を唱える人が、「国家神道」とか「軍国主義」を肯定する気がなく、本当に国のために斃れた人を手厚く追悼したいという気持ちでいるならば、矛盾の多い靖国神社ではなく、国のために斃れた人を手厚く追悼できる施設を作ろうというプランに反対しないはずだと思うのですが。