終戦記念日にインパール作戦の悲惨を思う

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終戦記念日。それにちなんで、ちょっと古い話を書く。姫路でもすでに多くの人が知らないし、面白くもない話だが、知っておいたほうがよいと思うので。

姫路には陸軍第十師団の司令部があった。陸軍に配属された市民は、だいたいが第39連隊と第40連隊に入営した。39連隊はフィリピンに送られ、40連隊はサイパンに送られた。

サイパン島守備隊が全滅したのはよく知られている。フィリピン戦線ではルソン島に送られた第10師団兵士2万1千名のうち、生還者はわずか3千名だった。集団自殺と言ってよいフィリピン作戦を指揮したのは寺内寿一元師。総理大臣寺内正毅の息子である。

寺内は司令官になってはいけない人物だった。戦前には陸軍皇道派の一員として日本の軍国主義化を推進した。戦争中には、あの悲惨なインパール作戦を指揮した。インパール作戦では参加数8万6千名のうち、7万2千名が死んだ。そのうち4万名が餓死である。

敗戦の原因は、実地の険しさを知らない司令部が地図だけをもとに作戦をたてたからだと言われている。インパール作戦は完全な失敗だったが、彼は責任をまぬがれ、南方方面軍司令官としてフィリピン作戦を指揮することになる。

フィリピン防衛戦では、主戦場をルソン島からレイテ島へ変更するという大失敗をやらかした。地図では隣どうしのルソンとレイテだが、実地の距離は東京と岡山くらい離れている。この距離にもかかわらず、方面軍の膨大な人員、装備、物資を移動させる困難さを具体的にイメージできない司令官だった。紙の上でつくられた作戦の非現実性、実行不可能性を現場指揮官が進言したのに、強引にやらせたそうだ。インパールの失敗から何も学んでいないのだ。

当然ながら、防衛計画は破綻した。フィリピンでは動員50万のうち37万名が死んだ。半数以上が餓死だった。

凡庸以下の人物でも毛並の良さで司令官となれば、厳しい軍規によって絶対的権力をにぎり、その結果、おびただしい将兵が無惨な最期をとげたが、寺内自身の責任は、ついに問われることがなかった。それが日本軍だった。

重苦しい歴史だが、忘れてはいけない歴史だと思う。こんな歴史を二度と繰り返してはならない。

私はきょう護国神社に行く。10時から終戦記念日祭である。英霊をたたえるためではなく、彼らに無惨な死を強制した者への怒りを、地下の彼らと分かち合うために、私は参加する。