貧しさということについて

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どうも世の中には「生活保護受給者は国の厄介者」みたいな意識を持った人がいるようで、時々そういう主張に出会うと、私は胸が痛くなります。

こんなことは自慢にもなりませんが、私は貧しさというものを知っているつもりです。千円の金がない、明日もお金が入る予定がないという暮らしがどれほど切ないものか、そういう暮らしに追い込まれると、どれほど心が荒み、折れてしまいそうになるか、それでも人間としてのプライドを失っているわけではないのだとか、理屈を言っても国士さまたちに通じないかも知れないので、私事にわたりますが、自分を例に語ります。

私の実家は商売で失敗して落ちぶれた貧乏人だったので、兄弟は誰も大学に行ってません。自分などは高校にさえ行けませんでした。学力がなかったせいではないんだけどね。

生きるために、これまで色んな仕事をしました。自衛隊を出てから、日払いの清掃員をしたり、土方もしたり、土方を怒鳴り上げる人夫出し稼業もやりました。汚物まみれになりながら下水道処理場の整備工事もしました。自分の来し方を顧みて、ほんと、いつ転落してても不思議ではなかったと思います。

いま、運良く一戸建てを持って、いっぱしの社会人の顔をしていられるのは、まあ時代が良かったんです。真面目に働けば、それなりに相応の報酬が得られたから。人にもチャンスにも恵まれたしね。いまなら派遣社員で使い捨てになってるかも知れません。

自分がどんな人間集団に属するかというのは、人生にとって決定的な意味を持つと思えます。私が合唱団に所属していたってのは、自分にとって本当に重要なことだったと思います。おかげで憂さ晴らしのバクチに誘われてもそんな時間がなかったし、合唱団の仲間はそういう刹那的な人生を送っていないから、競馬やゲーム喫茶というものが日常生活に入り込んできませんでした。自分なんか誘惑に弱いから、合唱団に入っていなかったら、きっとどこかで身を持ち崩していたでしょう。

家族に対する責任というのも、自分を律する大きな力でした。子どものうち、一人が来年大学を卒業します。ようやく一家から学士さまが誕生することになるので、素直に嬉しいです。学歴がどうのこうので差別する気はないけれど、自分がそれでさんざん苦労したので、行けるなら大学へ行った方がいいと思っています。

他の子どもも、家庭を持って次世代になれば、大学生を誕生させるだろうと楽しみです。多くの人からは、たかが大学、上昇志向を持つにしても目標が小さいじゃんと笑われるかも知れないですね。でもね、この世間、家族ぐるみで「浮上」するには、家族みんなの、世代を超えた努力が必要なんですよ。我が家はいまその途上にあるんです。とてもとても、「たかが大学」ではないんです。

かなり長い間いわゆる「下層社会」で生きていたので、生活保護家庭の実態も知っています。自堕落でどうしようもない人間もいないではないけれど、1日も早くその境遇から脱出しようと努力している人が多いし、生活保護家庭で育った子どもも頑張って勉強し、働いています。失敗を望む人間はいないし、努力を始めから放棄している人もいない。

しかし人間なんてみんな弱いもんですから、よほどの才能に恵まれない限り、普通の人の努力には限りがあります。偏見の壁、経済力の壁、支援してくれる大人がいないハンディ、などなど人生に立ちふさがる壁は多く、しかも失敗してもやり直せたり自己投資できたりという「溜め」というものが、貧しい階層にはありません。

努力すれば報われるはずだという夢を、世代を超えて何十年も持ち続けることができなければ、途中で力尽きて挫折することになるでしょう。

果たしてこの国は、そういう持続的な夢を国民に与えているのだろうか。健全なチャンスを用意できているのだろうか。その問いかけなしに、すべての結果責任を個人に課してよしとする考え方には、私は同意できないです。