スリランカ内戦の資料 ETTL過激化前史

【参考】
*http://f1.aaa.livedoor.jp/~home/kikou2.html

■タミル迫害の始まり シンハラ第一主義 仏教ナショナリズム

スリランカの民族問題を考える上で重要なのは、バンダーラナーヤカが1954年の選挙で唱えた「シンハラ・パマナイ(シンハラ語第一主義)」のスローガンである。彼の率いるスリランカ自由党(Sri Lanka Freedom Party ; SFLP)は、シンハラ仏教ナショナリズムを前面に掲げ、統一国民党の政権維持の野望を砕くことに成功した。

バンダーラナーヤカは政権を握るとすぐに、公用語をシンハラ語のみに限定する公用語法を制定した。これによって、シンハラ語は官公庁で使用される公用語の地位が与えられたのである。

バンダーラナーヤカを支持したのは、英語による西欧流の教育を受けていない仏教僧や教師などの地方のインテリ、新興の商人たちであった。彼らの不満を軽減するために、タミル人が犠牲になったのである。

タミルの代表的な政党であったタミル連邦党は、国会の前でデモを組織したが、これがシンハラ人たちによって襲われ、他の領域にも飛び火する。東部では100人ものタミル人が殺された。この事件がその後、加速的に増加する民族紛争の最初のものであった。

■抵抗と抑圧のせめぎあい二度目のタミル人虐殺事件

1957年7月26日、タミルの激しい抵抗にあったバンダーラナーヤカ首相は、タミル連邦党の党首セルヴァナヤーハムと協定を結ぶ。
この協定でタミル語を国語とみなし、タミル人の多い北部州と東部州においては公用語とするという合意に達した。さらに、北部と東部に、直接徴税や教育を司る地域会議(Regional Council)の設定を認めてタミル側の自治権の要求に対し、大幅な譲歩を行なった。

しかし、バンダーラナーヤカ首相は、戦闘的な仏教僧や、やはりシンハラ語第一主義政策を採用した野党統一国民党からの圧力に屈し、翌年4月にはセルヴァナーヤハムとの協定を反故にする。

それに反発して5月にタミル連邦党は大規模な不服従運動をヴァヴーニヤー県で組織するが、そこに全国から集まろうとしていたタミル人をシンハラ人が襲い始める。300人以上のタミル人が殺され、放火や略奪は2000件にも及び、2万人のタミル人が家を追われ難民と化した。すでに当時、タミル人が人口比率以上に公職を占めているという不満があり、コロンボでは公務員などが襲撃の対象となっている。

■仏教の国教化 新憲法制定

バンダーラナーヤカ(前出とは別人。妻にあたる)政権は、1946年制定の憲法を改定し、1972年5月に新たな憲法を発布した。これによって、これまで英国連邦の自治領セイロンは、完全な独立国となった。また、二院制を廃止し、一院制の議会制度を確立した。

この憲法ではシンハラ語が唯一の公用語であるという基本理念が盛り込まれた。さらに仏教を国教に準ずるものと規定し、国家は仏教を保護し助成する義務があると主張している。

以上のようにシンハラ至上主義にもとづくシンハラ語第一主義の政策は、1972年の憲法制定によって決定的なものとなったのである。

1956年から激化する民族紛争の直接の原因は、シンハラ語を唯一の公用語にするというバンダーラナーヤカの公約であった。もともと人口密集地帯で第一次産業の発展に限界のあるジャフナ出身のタミル人は、弁護士などの専門職や公職への就職を望んでいたため、シンハラ語の知識が必須となると、この分野で生活の糧を獲得することが困難となる。したがって、1956年の公用語法の制定はタミル人の生活そのものを脅かす出来事だったのである。

■高等教育からタミル人を排除

これに追い討ちをかけるような政策が、1970年代の大学入試における平準化体系(Standardisation System)の導入である。

1973年、ジャフナ地域は政権が行き届いており教育水準が高いという理由から、タミル人とシンハラ人との間で入学のための最低点に差をつける平準化体系が導入された。これで教育格差を解消しようとしたのである。翌年には、高地や僻地のシンハラ人の主張を受けて地域間の格差を解消するために県別割当体系(District Quota System)が生まれる。

1976年になると、県別割当体系は入学者全体の3割にのみ限られることになる。また、平準化体系は廃止される。

1977年になって統一国民党が政権を握ると、大学入試をめぐる優遇制度は取り除かれることになるが、優遇制度以前の割合にタミル人の学生数が増加することはもはやなかった。

こうした政策によって大きな被害を受けたのは、北部のタミル人であった。就職に有利な理・工学部と医学部に限って統計資料を分析すると、1970年にスリランカの大学の理・工学部に入学したタミル人は全体の48.3%を占めていたが、1974年にはこれが、16.3%に落ちてしまう。同じく医学部の場合、48.0%から26.2%へと降下する。これに対して、シンハラ人は工学部では1970年に 51.7%だったのが、74年には 78.8%、医学部は 49.2%と増加する。

■公職からのタミル人の排除

公用語や大学入学の差別は就職差別と密接に関係している。小学校5年、中学校5年の義務教育、2年間の高校教育の後に受ける上級レベルの試験合格者のうち、タミル人の失業率は1983年では、41%、これに対しシンハラ人の失業率は29%である。

公職に就いているタミル人の割合を見ると、独立前にはタミル人は30%を占めていたのが、1975年になると6%まで下がってしまう。とくに警察・軍隊でのタミル人の就職が激減する。1956年には40%のタミル人がこれらの分野に就いていたが、1980年になるとわずか4%しか占めなくなる。

警察や政府軍がシンハラ人の利益を代表し、タミル人への虐殺に対し見て見ぬふりをしているという嫌疑がかけられても当然であろう。

■タミル迫害はシンハラ人社会の矛盾が原因

ジャヤワルダナの解放経済政策の結果、起業家の競合関係は激しさを増し、また最良の水準に達していた福祉政策が見直されることになる。

この結果、シンハラ人の内部で貧富の差が拡大した。自由化によって電気製品などの外国製品が街にあふれ、人々の購買欲をそそった。人々の欲望が生活水準以上のものを求めるようになったのである。

こうして生まれた貧窮化、剥奪感は政府批判へと向かわず、タミル人へと向けられた。1950年代に起きた暴動と同じように、シンハラ社会の矛盾が、1981年と83年のタミル人排斥を求める暴動を生むのである。

■第3次タミル人虐殺

さて、1977年夏、選挙から数週間後に、新たな虐殺の嵐がタミル人を襲った。8月13日から9月15日までの間にシンハラ人の暴徒たちが、タミル人の店や家を襲ったのである。これは直接には、ジャフナのシンハラ女子大生が強姦されたという噂に端を欲しているが、その背後には、タミル統一解放戦線の分離政策に対するシンハラ民衆の反発が存在する。この暴動で300人が死に、3万5000人が難民となった。この虐殺ではじめてインド・タミルたちも攻撃の対象となった。

■第4次タミル人虐殺

1981年5月には、統一国民党に属するタミル人の国会議員が過激派に殺された。これに反発した警官や兵士たちがジャフナの公営図書館を放火し、貴重な書籍が灰と化した。同時に国会議員の家や新聞社、本屋なども攻撃されている。この事件は他の地区にも飛び火し、8月には東部やコロンボのタミル人が襲われた。

■第5次タミル人虐殺

1983年7月23日夜、ジャフナで13人の政府軍兵士が過激派に射殺された。この銃撃戦が直接の端緒となって、コロンボでシンハラ人によるタミル人への大虐殺が始まる。これが、後に「7月の暴動(July Riot)」と呼ばれるスリランカの現代史最大の醜悪な事件である。

シンハラ人たちは、タミル人たちの家や店、工場を破壊し、さらには女を襲い、無差別に、しかも残虐な方法でタミル人たちの命を奪った。コロンボで発生した虐殺は地方にも波及した。

25日から28日までにコロンボで家をなくしたタミル人は10万人にのぼる。そして、一節には4000人もの罪無きタミル人がシンハラ人たちの手によって「処刑」された。他の地域では、合わせて17万人以上のタミル人が難民となった。

1983年の虐殺の特徴は、たんに組織が大きいというだけではない。その特徴として、与党傘下の労働組合を中心に虐殺行為が組織的に行なわれたこと、その中核に政府の閣僚が含まれていたこと、警察や軍部も直接あるいは間接的に略奪や虐殺の手引きをしたこと、医者などの専門職に就いていたタミル人も攻撃の対象となったことなどを挙げることができる。