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なぜ日本はアジアを侵略したのか?
すごいテーマです。とても一言では言い尽くせません。それを語る切り口は、文化・教育論、経済論、地政学理論などなど、ゴマンとあります。でもまあ、すごーく大雑把に言っちゃえば、要因は4つぐらいあったんじゃないでしょうか。
(1)明治政府指導者の教養がそういうものであった。
今回はここを語ります。
(2)植民地拡大は当時の列強の常識だった。
ここに不平等条約改定の動機が絡んだり、ロシア脅威論が生まれたり、「対馬事件」や「巨文島事件」が絡みます。大アジア主義のロマンもここが原動力です。
(3)明治政府が山県有朋の「外交政略論」を戦略として用いた。
これが際限なき自己肥大運動の原点です。
(4)日本の経済界がそこに利益を求めた。
言わずもがなです。
さて、と。
明治政府指導者の行動原理の基礎である教養はどんなものだったでしょうか。維新の元勲は江戸時代に青年時代を過ごしました。彼らはみんな、基本的に江戸時代の人間でした。だからその教養の基礎は江戸時代の国学です。間違っても、ギリシャ哲学とかドイツ観念論ではありません。
国学者と言えば佐藤信淵や橋本左内。なかでも吉田松陰の影響は決定的でした。維新の志士で吉田松陰を師と仰がない人は、いなかったのではないでしょうか。
では彼らはどんなことを唱えていたのか。学校で名前は教えてくれますが、その思想までは教えてくれません。せいぜい尊皇攘夷であったことくらいしか、私たちは知りません。
彼らはこんなことを唱えていました。
佐藤信淵
「まず南洋を攻略し、これを推しひろめて、全世界をことごとく日本の有とすべし」
すごいことを書いていますね~。
橋本佐内
「日露同盟によって満韓を経略し、版図を海外に拡張すべし」
と、その後の日本の進路とは別の提案ですが、北方侵略を説いています。
佐藤は南進論、橋本は北進論で、後の海軍と陸軍の戦略対立がすでに現れています。
吉田松陰
「朝鮮を責めて、質を納れ、貢を奉ずること古の盛時のごとくならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(フィリピン)諸島を収め、進取の勢を示すべき」
「国力を養ひて取り易き朝鮮、支那、満州を斬り従えん」
なんと、なんと、その後の日本の戦略を見通したような文章を書いています。
しかし、「人質をとって貢物(みつぎもの)を持ってこさせ」などという発想が大時代で、いかにも江戸時代、というところです。要するに小中華帝国思想です。その華夷秩序のミニチュア版なのです。真ん中に中国を置くか、日本を置くかの違いだけ。「古(いにしえ)の盛時」って、いつごろのことだと思います? 彼のイメージしているのは、これがなんと、神功皇后の時代なのです! 5世紀でっせ。
こういう教養世界で育ち、その思想を学問として学んだ青年たちですから、維新直後からアジア進出を開始したのは不思議ではありません。それが彼らにとって本来あるべき姿だったのです。彼らは師の教えに忠実であっただけと言えるかも知れません。
中央政界に絶大な影響力を誇った戦前の右翼団体「黒龍会」の主幹だった葛生能久がこんなことを書いています。
「徳川の鎖国政策は我が国民の対外発展の気風を萎縮せしめた」
「しかし神功皇后や豊臣秀吉、加藤清正の虎退治の話などを通じて、無学文盲の百姓町人やがんぜない子供までが皇国の武的力のすぐれたるを信じていて、支那朝鮮など恐れるにたらずと思っていた」
「時代の先覚者(吉田松陰たち)が遠大な経綸を描き出せた理由はここにある」
「こういう点で、歴史教育とは偉大である」
まことに正直です。
吉田松陰の弟子たちが明治日本の基礎を固め、朝鮮を植民地にした。その薫陶を受けた孫弟子たちが次代の指導者として、中国侵略に乗り出した。こういう歴史の描き方もできないではありません。なにしろ大日本帝国の歴史って、たった77年だったんですからね。
ここに書いたようなこと、明治時代から昭和中期までは常識だったのに、今ではほとんど誰も知らないのではありませんか? 我々が、そういう教育しか受けていないからです。権力者にとって都合の悪い事を教えられていないのです。
上っ面のきれいごとを並べたような教育しか受けていないのです。教室では日教組が幅を利かせているのかどうか、私は知りません。でも教科書を作るのは政府だという構造を忘れてはいけませんね。
「自虐史観」を破壊せよという「新しい教科書」にも、こういうきわどい話は出てきません。だから批判的に学ぶこともできない。あぶないことですね。