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今年8月11日に札幌市議会議員・金子やすゆきがツイッターで以下の発言をしました。
「アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよね。せいぜいアイヌ系日本人が良いところですが、利権を行使しまくっているこの不合理。納税者に説明できません。」
当然にも批判の声が多数上がりましたが、彼は言を左右して撤回せず、ますます差別的な意見を述べるに至っています。
私はこれに賛同するとともに、以下の意見を添付しました。
言葉を失い、習俗を捨てれば民族性を失った、もしくは民族性が希薄になったと金子市議は言います。なるほどと思わせる意見です。
それならばちょんまげを捨て、日常で和服を着なくなり、観光で和服を見せることもある日本人はどうなのでしょうか。江戸時代の言葉を読めず、明治文学でさえ現代語訳でないと理解できなくなった私たちは、日本民族として半分消えたのでしょうか。
そんなことありませんよね。しかし金子市議の言うことをそのまま敷衍すれば、私たちは多かれ少なかれ民族性を失ったことになるのですし、民族性を失った民族は消滅しかけていることになります。金子市議の言い分を他人事として聞いている間は、もっともらしく聞こえるかも知れませんが、自分に引き当てて考えると、その誤謬性を肌で感じ取ることができます。肌で感じ取ることのできるその感覚、それを多数派民族から少数民族に強制すること、しかも罵倒に近い侮蔑的な表現でそうすることは、ヘイトではないかと思います。
多数派民族と少数派民族の和解を目指し、かつて、多くの国で、差別をなくすには同化することがよいと信じられて、その政策が実行されました。「アイヌと日本人のどこが違うのだ、同じではないか」という意見は、人格としての平等という意味ではとても正しいのですが、ともすれば民族の独自性を見ない態度につながる弱点を持っていました。同化主義の、足りない面があらわになっているのです。
同化政策は各国で試された結果として、そのやり方で差別をなくすことはできないという結論に至りました。その道を振り返り、今日では、同化主義は多数派民族の奢りであったという反省がなされています。
金子市議は、試された結果として間違いであると分かった考えに、いまだに囚われています。人は間違いを繰り返して正しい方向に進むものですから、間違いそれ自体は避けられません。しかし間違いが間違いであることがわかった後もそのことを認めないで、失敗であることが分かった考えに固執し続けると、それはもう「避けられない間違い」であるとは言えなくなります。弾劾すべき固陋であります。特に基本的人権に関わるジャンルでこのような態度を取り続けるのは、民主主義社会にとって有害です。ましてや市民の代表であるならば、尚の事です。私はこのように考えます。
以上の理由にもとづいて、私は金子市議に対しては議長の辞職勧告がふさわしいと考えますので、当署名に賛同いたします。