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朝鮮半島南端部の伽耶(かや)に「倭国」の遺跡があります。番組で紹介されていましたが、倭国と同じ文物がぞくぞくとあらわれているのです。
これの説明が、もどかしいったら! 韓国側も日本側も現代のイデオロギーに影響されすぎて、史料を無視した学説ばっかり立てているのは何とかならんのかな。朝鮮半島の南端部から倭国のものが出るのは、そこに倭国の領域があったからに決まっているじゃないですか。それを認めるのが、どうして不都合なんだろう。
不都合なんですよね、両国にとって。
韓国にとっては、はるか古代であるとはいえども倭国=日本の領土があったことを認めたくないでしょう。
では日本側の不都合とは?
その理由をこれから書きますが、現代の都合で古代史を曲げるのは、それは学問ではありません。
■韓国は倭国と陸続きだった
『三国志』に、韓国の位置が書いてあります。
韓は帯方の南にあり。東西は海をもって限りをなし南は倭と接す。(『三国志』韓伝)
北:当時中国領だった帯方郡(ピョンヤン辺り)。
東:海
西:海
南:倭国とくっついている。
「南は倭と接している」というのだから、半島の南端に倭があったんです。行程記事にもそう書いてあります。
(帯方)郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓國を歴(ふ)るに、乍南乍東、その北岸、狗邪韓國に至る。七千餘里。
狗邪韓国(くやかんこく)とは、後の伽耶(かや)国のことです。それが倭国の北岸だというのだから、そこは倭国なんです。伽耶(かや)から倭の遺物が出るのは、そこが倭国だったからです。伽耶は百済とか新羅というような国名ではありません。地名です。弁韓、辰韓、馬韓というのと同じ呼び方ですね。
ちなみに豆知識。
対馬はどう見ても「つしま」と読めません。「つしま」とは対島という意味で、これなら「つしま」と読めます。ではどうして「つしま」という音に「対馬」の漢字を当てるかというと、「馬韓に対する島」だからです。
■任那日本府は実在した
倭国の南岸は九州です。つまり当時の倭国は玄界灘をはさんでその両岸に領土を有していた、海峡国家だったのです。
世界的に見れば、特に珍しいことではありません。蝦夷人の国は本州北端と北海道にまたがっていたし、中国と台湾はかつて一国でした。ギリシャはエーゲ海を挟んで両岸に領土を持っていました。一時は英国がフランスに領土を持っていました。海峡通行権を支配するには、両岸を支配していた方が有利ですからね。
朝鮮半島に前方後円墳があるのは、そこが倭国の領域だったからで、倭国式の土器が出るのは、そこに倭人が住んでいたからです。朝鮮半島では三韓+倭の四か国が互いに覇を競っており、まず倭国が任那日本府を失って海に追い落とされ、ついで百済と高句麗が滅ぼされて、新羅が統一を達成したのです。
任那というのが伽耶の日本名です。同じ地域に両側から別々の地名がつけられるのは、これも不思議なことではありません。モルダウとブルタヴァ、エベレストとチョモランマ、フォークランドとマルビナス、などなど。
■倭国とは九州のことだった
ところで『三国志』には倭国の領域も書いてあります。
山島に拠りて国邑をなす。
倭国は島だというのです。当時、津軽海峡は知られていませんでした。倭人も中国人もそこまで到達していませんでしたから。すると本州が島であるという認識はなかったはずです。ということは、倭国は九州以外ではありえません。大和朝廷と倭国は、少なくともこの時点では何の関係もないのです。
『旧唐書』には、「倭国伝」と「日本伝」が別伝であげられています。
「倭国伝」には、倭国は島であると書いてあります。
「日本伝」には、「東は大山をもって限りとなす」と書いてあり、「山外は毛人の国なり」とあります。日本は島ではないと見られていたのです。これが大和朝廷です。大山とは日本アルプスのことでしょう。毛人の国とは、蝦夷の国であり、後の地名でいえば「毛野国」、すなわち利根川、太日川、毛野川の流域一帯を指しており、群馬や埼玉を含む関東地方のことです。
■間違った歴史は天皇家のため
大和の天皇家を中心に解釈すると、日本史も東アジア史もわからなくなります。華々しい古代東アジア外交の世界と天皇家は、まったく無縁です。
「倭・百済連合軍」が「唐・新羅連合軍」に白村江の戦いで敗れ、百済も九州倭国も滅亡したのです。百済は新羅に吸収されました。そして倭国は大和天皇家に吸収されました。天皇家が日本列島の代表者として、古代倭国を継承する正統国家として立ち現れるのはその後のことです。
新参者の常として、自らの出自を古く飾り、その正統性を強調したがるものです。『日本書紀』とはその目的のために作られたものであって、考古学も隣国史料も天皇家のつくった歴史を裏付けていません。
しかしこれをそのまま認めてしまっては天皇家の権威に傷がつきます。天皇家の権威を守ってきた学問世界も、いまさら本当のことを認めては大変なことになります。こういうことで、わたしたちは実のところ、教育の名でとんでもない歴史を吹き込まれているのです。
<追記1>
金印は「漢委奴国王」ですね。
後漢の光武帝が与えたものです。これについて通説の相当でない点を列挙します。
1.これまで知られている金印は志賀島の金印より三十年早い「滇王之印」だけです。つまりめったに与えられる物ではないのです。地方政権の王に与えた例など皆無です。
2.中国は、印を与える場合は直接の服属関係を前提としており、中間的支配者の存在を認めない。つまり「漢-委奴国王」が正しく、「漢-委-奴国王」はあり得ない。
こういうことですから「委奴国」すなわち「倭奴国」が金印を受けた王の支配する国名です。そして倭奴国とは倭国そのものです。『旧唐書』に「倭国は古の倭奴国なり」と見えています。こうして「倭の一地方である奴国の王が金印をもらった」という通説は怪しくなります。
このような考察を時代を追って進めていくと、どう見ても近畿天皇家が中央政権を握ったのは西暦700年以後だという説を信じざるを得ないんです。
<追記2>
応神天皇は九州生まれですね。
仲哀天皇が九州王朝に反旗を翻したとき、応神の母である息長帯姫(神功皇后)と武内宿禰が九州王朝側に立ってクーデターを起こして仲哀を倒したため、九州で応神と神功皇后の評判がいいんじゃないんでしょうか。神功と武内はその後大和にいた仲哀の後継者を倒して大和王権を簒奪しました。
朝鮮半島に対して対外戦争ばかり繰り返していた九州王朝はだんだんと衰微していき、磐井のころには実力的には大和政権が九州を凌駕していたかも知れないです。
でも大和軍は磐井軍に対して正面攻撃したのではなく、ほとんど不意打ちですよね。大義名分がないから倭国に取って代わることが出来ませんでした。
そこで磐井とその長子を斬るという大勝利をおさめながら磐井を完全打倒できず、糟屋の屯倉を手に入れただけです。勝利と報酬のバランスが悪すぎます。結局は磐井葛子と和睦を結んでいますもんね。この後も九州年号がずっと続いていますし。
<追記3>
磐井がどうやら律令を敷いていたようなのです。
『筑後風土記』にその記述があります。
筑後国の風土記に曰く、上妻の県、県の南二里、筑紫の君、磐井の墓墳有り。高さ七丈、周り六十丈。墓田覇は、南北各六十丈、東西各册丈。石人・石盾、各六十枚。交陣、行を成し、四面に周匝(しうさう)す。東北角に当たり、一別区あり、号して衙頭(がとう)(大将軍の本営を示す漢語)と曰ふ。①衙頭は政所なり。其の中に一石人あり。縦容として地に立てり。号して解部(ときべ)(裁判官)と曰ふ。前に一人有り。ら形にして地に伏す。号して偸人(とうじん)(盗人を示す漢語)と曰ふ。②猪を偸むを為すを生ず。仍りて罪を決するに擬す。側に石猪四頭あり。贓物(ざふぶつ)(盗んだものを示す漢語)と号す。③贓物は盗み物なり。彼の処にも亦、石馬三疋・石殿三間・石蔵二間あり。
「罪を決するに擬す。」というのですから、裁判の様子を石像にしているのです。
ここには行政術語や法令術語が見えており、その解説が書いてあります。
衙頭は政所なり。
号して解部と曰ふ。
号して偸と曰ふ。
贓物(ざふぶつ)と号す。贓物は盗み物なり。
また磐井の後の時代を扱っている『隋書倭国伝』には刑罰が具体的に記されています。
これは律令の存在を背景にしなければあり得ないことです。
律令を敷く権限をもつのは「天子」だけですし、近畿天皇家が律令を敷いたのはずっと後代ですから、やはり九州王朝は磐井以後も存続しているのだと思います。
こういう歴史を書いた物が残っていれば良いのですが、残そうとした努力は天皇家が踏みにじってしまいました。
『続日本紀』にこんな記事があります。
①元明紀・和銅元(708)年
全国に大赦を行なう。和銅元年一月十一日の夜明け以前の死罪以下、罪の軽重に関わりなく、すでに発覚した罪も、まだ発覚しない罪も、獄につながれている囚人もすべて許す。(略)
山沢に亡命し、禁書をしまい隠して、百日経っても自首しないものは、本来のように罪する。②元正紀・養老元年(717)年(十一月十七日)
…山野に逃亡し、兵器を隠し持ち、百日以上になる者は、大赦はなく、もと通りの罪とする。
「禁書」をいただいて山にこもり、ゲリラ戦を戦っていた九州王朝の残党が、この時代にまだいたのです。もしかすると、どこかからひょんなことでそういう書があらわれる可能性もなきにしもあらずですね。
それと沖の島ですけど、そこは例の「天の岩屋」ですよ。沖の島は二つの岩島からなっていて、小さい方を「小屋島」といいます。「アメノコヤネノミコト」っていましたね。すると大きい方は「大屋島」か、「岩屋島」じゃないですかね~。だったら「海の正倉院」になっても不思議はないですね。
<追記4>
高地性集落の話は面白いですね。
私は九州→本州の攻勢があったと思っています。神武もそのうちの一人ですね。そしてその攻勢に負けたのは銅鐸を作っていた勢力です。3~4世紀にかけて、まず大和の銅鐸が消滅していますから、大和政権の成立はそのころでしょう。
白村江の戦いのあと、九州北部まで攻め入られたとの仮説ですが、半分は正しいと思います。というのは二千人の唐軍が九州に上陸しているからです(日本書紀)。おそらく占領軍に近い存在だったのではないでしょうか。でも太宰府の条里制はそれより早い時期の成立(618年)ですから、唐軍と無関係ですね。