改憲論の根拠を検証する(1)「ソ連脅威論」を振り返る

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=562270911&owner_id=12631570

昨日の日記(編集注)に顛末を紹介した「憲法懸賞作文」のボツ原稿、せっかく書いたし、もったいないので、 一部を日記に転載することにした。読み返すと、あまり構想を考えずに、とりあえずダラダラと綴ってみたのがありありとわかる。こりゃ、駄作だな。

以下の転載は懸賞作文の前書き部分をとばして、いきなり本文から始まるので意図をつかみにくいと思う。が、とりあえず載せておこう。コピーするだけだから楽チンだし(^。^)y-~


■「ソ連脅威論」とは何だったのか。

日本列島を飛び越えて行ったテポドンミサイルは、平和ボケの日本人の目を覚ます警鐘であったという意見がある。

そうだろうか。テポドンは決して初めての警鐘ではない。日本にはこれまでにも幾度となく「平和ボケの日本人の目を覚ます警鐘」が鳴り響いた。そしてそのたびに軍備拡大が行われ、憲法解釈が拡大されてきたのではなかったか。それらは常に作られたプロパガンダか、さもなければ焦点と方向性のずれた、まがい物の警鐘だった。

ここではそのすべてについて語ることはできないので、1980年代のソ連脅威論を典型的な例として取り上げ、昨今取り沙汰されている北朝鮮脅威論と比較してみたい。

1980年代、まるで今にもソ連の北海道侵略が始まるかのような騒ぎがあった。書店にはソ連脅威論の書物が山積みになり、「諸君」や「正論」は毎号ソ連の軍事力やその拡大政策を暴露する記事で満ちていた。まるで今日の拉致問題、北朝鮮批判の洪水と同じ様相だった。騒ぎを本気にして、実際に本土へ引っ越しした道民もいたという。

ところでこの騒ぎの震源地は、実はアメリカだったという分析がある。当時はまだ勢いのあったソ連は、米国とのミサイル競争に遅れをとっていた。アメリカは多数の原子力潜水艦でソ連を攻撃できた。 潜水艦は位置が不明だし移動するので反撃不能の攻撃手段だ。ソ連はこれに脅えた。そこでソ連は、彼ら側の論理ではソ連防衛のために、SRBM(潜水艦発射型弾道ミサイル)搭載の原潜を極東に配備した。

これが太平洋に進出してくると、アメリカ本土が直接の脅威にさらされる。そこでアメリカは、ソ連海軍が太平洋に出て来られないよう、日本に宗谷海峡など3海峡を封鎖することを求めてきた。

しかしそれはとりもなおさず日本とソ連が直接対決する事態を招く。日本の防衛当局は要求を飲むのに苦慮したという。が、ちょうどこの時機に、ソ連は極東艦隊に「軽空母ミンスク」を配備した。
さあ、良い口実ができた。これ幸いとばかりに、日本政府は大キャンペーンを開始した。ソ連脅威論の出番である。これはソ連の対日侵略の先触れだ! 冒頭に記した狂想曲がにぎやかに奏でられ始めた。

確かに米軍と自衛隊はソ連の北海道侵攻をリアルに捉えていた。だがそれは、一般に流布されている「ソ連の侵略」とは、やや異なったものだった。
軍事当局の考えとはどういうものだったか、それは明日の日記に譲る。

<編集注>
「昨日の日記」とは「沖縄戦での強制集団自決と憲法作文の話」(2007/9/14)(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=561739435&owner_id=12631570
兵庫県弁護士会の「憲法懸賞作文」に応募すべく12,000字の論文を書いたが、投稿後に字数規定が4,000字であったことに気づいたという顛末がユーモラスに綴られている。本稿以下、3回にわたる「改憲論の根拠を検証する」は、応募規定に合わせるために削除した部分の一部。「ボツ原稿」とあるが、再投稿した応募論文(下記リンク)は優秀賞(5編)の1つに選ばれている、

護憲的安全保障論 泥憲和
http://www.hyogoben.or.jp/old/topics/img/sakubun/doro.pdf