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あれこれと忙しくて日記の更新もままなりません。「派遣切り」や「憲法」について書くより、それらと現実に向き合って運動する方が楽しいし有益……というのはレーニンのパクリですが、そんな気分です。
5月の「憲法を守るはりま集会」の冒頭で、パワーポイントの映像と音楽を組み合わせて詠み上げる原稿(下記)が出来たので、皆さんの意見を聞かせてもらえませんか?
当日はもっとたくさんの画像を使います。
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1.創成
「9条の会」が生まれたのは、2004年(平成16年)でした。
この時期の日本は、まさに「改憲の時代」でした。
2000年に入って以来、改憲世論は常に6割を超えていました
逆に護憲世論は3割を切っています。
「9条改正賛成」の意見はなんと73%もありました。
産経新聞は憲法記念日の社説で「憲法改正への機運は、かつてない盛り上がりを示している。」と書きました。
2002年(平成14年)には、自民党が「新憲法起草委員会」を設立しています。
「9条の会」が生まれた2004年は、改憲機運が最高潮に達した時期でした。
1月1日、小泉純一郎首相が靖国神社を参拝しました。
1月19日、陸上自衛隊がイラクに出発しました。
3月1日、派遣業務が製造業へ解禁されました。現在進行中である派遣切りの最大の問題の根が、ここで作られたのです。
4月には イラクで人質になった高遠菜穂子さんに対して「自業自得」、「自己責任だ」と激しいバッシングが起こりました。
この年の読売新聞社の世論調査を振り返りましょう。
・憲法改正に賛成 65%
・憲法改正に反対 23%
改憲世論は過去最高となり、護憲世論は過去最低でした。
特に20代・30代の改憲世論は全世代に突出していて、7割を超えていました。
5月3日、憲法を守るはりま集会。集まったのは250人でした。
7月11日、参議院選挙が行われて自民・公明が大勝。私たちの願いもむなしく、改憲議員が3分の2を超えました。
9人の呼び掛け人によって「9条の会」が発足したのは、このようなときでした。
7月24日、9条の会・発足記念講演会。聴衆は1,000名でした。
講演をニュースで知り、心ある人たちの中に、会に対する共感が広がりました。「こういう会が出来るのを待っていたんだ」。発足直後から、誰に指示されるでもなく、各地に小さな9条の会がつくられ始めました。当時、9条の会に届いた数多くの手紙の一部をご紹介いたします。
私たちは名もない市井の人間です。ただ日本の平和憲法特に9条を素晴らしいものと誇りに思い、何としても守り抜きたいという思いは人様に負けないと思っています。
近年の国政の動きに危惧を抱きつつも個人の力ではなす術も解らず、ただ傍観しているのも口惜しく一人でデモなどに参加したりしてきました。そんな時識者の方たちが『9条の会』アピールを出されました。私たちも何かの形で参加したいという思いで、会を作りました。
恐る恐る立ち上げた会でしたが、職場、地域の知人友人に呼びかけ、この2カ月あまりのうちに、現在960人の方が様々なメッセージと共に賛同の意思を寄せてくれました。憲法9条改悪に反対の意見を持ちながら、どう意思表示したらいいか解らずに悩んでいた人が案外多くいらしたことに意を強くしております。
世話人は3人、2人は身体障害者、1人は看護師です。名もない私たちのよびかけに一人でも応えて下さる方がいる事に願いをこめて、また9条が私たち一人一人の生きる叫びでもあるとして『<9条の会>アピールに賛同する一人一人の会』としました。
市民の声に応えて、よびかけ人たちの地方行脚が始まりました。
9月22日、大阪講演会。参加者3,700人。
10月6日、草の根の「会」で全国を一つの輪に、という呼びかけが発せられました。
11月21日、仙台講演会。参加者は4,500人でした。
この年、9条の会の講演会に集まった市民は1万6,000人となりました。
2.発展
年が明けて2005年。
2月25日、9条の会・横浜講演会。参加者5,000人。
しかし4月、国会では、衆参両院の憲法調査会が、憲法改正を説く「調査会報告書」を提出しました。
この年の読売新聞の憲法問題全国世論調査の結果は、
・憲法改正に「賛成」 61%。
・憲法改正に「反対」 27%。
まだまだ力の差が歴然としています。しかし増えるばかりだった改憲の意見が4ポイント減り、減り続けた護憲の意見が4ポイント伸びています。9条の会の数が2,000を超え、少しずつ、世論に影響を与え始めたのです。
このころから地方新聞が9条の会の動きを報道し始めました。
9条の会への支持が増えるのと反対に、おなじ5月ごろから、地方自治体で9条の会のイベント後援取り消しが始まったのも特徴です。
6月18日、一周年記念講演会の開催が発表されました。会場は有明コロシアム。数千人を集めねばなりません。地方都市で、これは大胆な計画でした。
時を同じくして、自民党が「自衛軍をもつ」と明記した「新憲法起草委員会・要綱第一次案」をまもなく発表することが報道されました。
すると6月23日、集会発表から5日しかたたないのに、地方都市の有明なのに、講演会の参加申込が3,000人になりました。
2日後の6月25日、参加申込が4,000人を突破しました。
6月29日には5,000人を突破しました。
7月7日、自民党が第一次改憲案要綱を正式発表しました。
その翌日、参加申込が一挙に8,000人を突破します。
7月16日にはとうとう申し込みを締め切りました。
7月30日、9条の会・有明講演会が開催されました。参加者は9,500人を数え、さしもの広い有明コロシアムも埋め尽くされることとなりました。
8月には戦争を賛美する「つくる会」の教科書が採択で惨敗。翌年、扶桑社は教科書事業から撤退すると発表しました。共謀罪の成立を阻止することもできました。
しかし全体としての世論はまだ改憲派に傾いています。
8月15日、靖国神社への参拝者が過去最高の20万5,000人にのぼりました。
9月11日、憲法問題を隠して郵政一本で行われた総選挙で与党が圧勝。改憲派議員は与党だけで3分の2のラインを突破しました。
11月22日、勢いに乗った自民党は「新憲法草案」を正式発表。
「自衛軍」創設の他、軍事裁判所の設置、政教分離原則の緩和、憲法12条も変えて「自由及び権利には責任及び義務が伴う」と明記してありました。
けれど9条の会はひるみません。
2005年12月10日、「9条の会」が3,614になりました。
3.せめぎ合い
明けて2006年。
読売新聞社の世論調査結果が出ました。
・改正する方がよい 55.5%
・改正しない方がよい 32.2%
憲法改正「反対」が2000年代になって初めて3割を超えました。
逆に「賛成」は5.5ポイント減らしました。
まだまだ改憲派が優勢ですが、じりじりと力関係を変えているのがわかります。
憲法を守るはりま集会は400人でした。
6月、9条の会は5,000を突破します。
イベントへの参加総数は10万人を超えますが、活動量が多すぎて誰にも取り組みの全貌がわからない事態に発展しました。
8月15日、小泉首相の靖国神社参拝について批判的な加藤紘一元自由民主党幹事長の実家と選挙事務所が放火で全焼しました。
同じ頃、9条の会は学生にも広がりました。東大、早稲田、慶応、明治、中央大などに会ができて交流が始まっていることが報道されています。分野別の会、地域の会もますます数を増やし、「9条を守ろう」の声は静かに、しかし確実に市民の中に広まり続けました。
9月26日 憲法にとって最大の危機が訪れます。改憲派・安倍晋三が第90代内閣総理大臣に指名・就任したのです。
9月29日、安倍首相がさっそく所信表明演説で憲法改正に言及します。
改憲が現実の政治日程に上った瞬間でした。
衝撃が走りました。こうしてはいられない!
各地の9条の会の活動が一気に強まりました。
4.攻勢
翌2007年。
2月、9条の会が6,000を超えました。憲法が変えられたらどうなるのか、日本各地でねばり強い対話が繰り広げられました。
5月3日、憲法を守るはりま集会。史上最高の1,000名が参加しました。
同じ日、安倍首相は憲法改正について3年後の発議をめざすと明言。14日には「憲法の改正手続に関する法律」が可決成立します。
5月5日、読売新聞社調査で護憲世論が改憲世論に肉薄したと報じられます。
・「改正する方がよい」は 19ポイント下がって46%
・「改正しない方がよい」は12ポイント上がって39%
世論の変化が誰の目にも明らかでした。しかもこれ以後も変化が刻々と毎日つづいていました。
しかし自民党は市民の変化に気付きませんでした。気付かないまま改憲へのアクセルを踏み、一気に加速しました。7月の参議院選挙の公約トップに「憲法改正」を据えたのです。
7月29日、参議院選挙が行われました。
予想外の結果でした。改憲派が惨敗し、自公連合を合わせても民主党の議席に及ばないという結果となったのです。
民主党の改憲派を合わせても勢力が3分の2に届かず、このままでは改憲が不可能になりました。
8月15日 読売新聞世論調査が発表されました。
・憲法改正賛成 42.5%,
・憲法改正反対 43.1%
わずかですが、ついに改憲反対が賛成を逆転していたのです。選挙結果はこの世論逆転の反映でした。
8月15日、靖国神社への一般参拝者数が激減、2年前より9万3,000人も減って16万5,000人になりました。
9月26日、失意のうちに安倍首相が退陣しました。「9条の会にやられた」とつぶやいて。
さらに前進は続きます。
9月30日、教科書検定に抗議して沖縄県民が島ぐるみで立ち上がりました。
10月23日、9条の会が6,700を超えました。
5.さらに前進へ
翌2008年。
4月28日、登録9条の会が7,039になりました。
改憲派は「9条の会などに対抗して改憲世論を広げる草の根の活動に取り組む」と宣言します。
5月1日、自民党が主導する「新しい憲法を制定する推進大会」が東京で開かれ、1,000人が参加しました。
5月3日には日本会議など民族派団体が「改憲国民大会」を開き、800人が集まりました。
改憲反対派は翌5月4日から3日間にわたって「9条世界会議」を東京で開催します。参加者は改憲派を圧倒する3万人。
5月5日の「9条世界会議広島」には1,100人。
5月6日「9条世界会議仙台」には2,500人。
同じ日の「9条世界会議関西」には8,000人が集まりました。
憲法記念日恒例の読売新聞世論調査の結果はこうでした。
・9条改正賛成30.7%
・9条改正反対60.1%
「読売新聞社説」はこう書きました。
転換点になったのは、2004年である。この年の6月に「9条の会」が結成され、全国で草の根の「会」が結成されていくのとほぼ並行して9条改定反対が増加し、賛成派との差が年々拡大してきた。憲法全体についての改定も2004年の賛成65.0%をピークに、翌年からは4年連続で改憲反対が増加、昨年は賛成が過半数割れしていた。
8月15日、靖国神社参拝者は約15万2,000人に減少。産経新聞が「靖国冬の時代」と報道しました。
*http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080815/plc0808152117011-n1.htm
11月24日 9条の会登録数7,294。
この他にも登録していない会が無数にあり、もはやその数を数えることは誰にもできません。
6.私たちは進む
そして2009年です。
9条改憲の危機はいったん押しとどめることができたかに見えます。しかし自民党は改憲の旗を降ろしていません。議会では改憲派が過半数を占めています。海上自衛隊はまだアフガン沖に出たままだし、ソマリアの海賊対策に護衛艦が派遣されました。憲法はいまもむしばまれています。
しかも恐ろしいことに、いま日本中に貧困が深く静かに広がっています。計り知れない内部留保を抱えながら、いとも簡単に労働者の首を切って自己保身をはかる大企業。
年金が不安です。
営業の先行きが不安です。
憲法25条の生存権が脅かされています。
戦争の危機と人権の危機は、二つで一つです。
憲法第9条と憲法25条の生存権をむすびつける動きが顕著になっています。
私たちは手をゆるめてはなりません。私たちは進まねばなりません。
本日発表される合唱曲「私たちが進み続ける理由」には、こう歌われています。
「今日は仕事がないから また明日出なおせ」と言われた
すべての労働者のために 私たちは進む家族を養えないことで 自分を恥じなければならない
すべての父親のために 私たちは進む仕事を二つかけ持ちしなければならず そのあいだ一人ぼっちで家にいる子どもを心配する
すべての母親のために 私たちは進む両親が残業しなければならないせいで 学校から空っぽのアパートに帰宅する
すべての子どもたちのために 私たちは進む利用されたあげく上司に屈辱を受け 語学を習う時間すらないために 言い返す言葉をもたない
すべての労働者のために 私たちは進む子どもを守り育てるために生活を切りつめ さまざまな犠牲を払ったあげく
もっといい人生を手にできるという 軍の約束を信じた子どもが
人を殺すか または自分が殺されるために 戦地に送られる姿を見送る
すべての母親のために 私たちは進むなぜなら 今こうしている間にも 人々が死につづけているから
今も この瞬間にも 私たちは進む
そして もしかしたら これ以上死なずにすむかもしれないという
可能性のために 私たちは進むなぜなら 私たちは何が正しいかを知っていて それを求めているのだから
そして それを手にする権利があるからこそ 私たちは進む
あまりにも長い間 あまりにもたくさんの犠牲がはらわれ
代わりに返ってくるものは あまりにも少なすぎたから 私たちは進むすべての父親のために すべての母親のために すべての子どもたちのために 私たちは進む