白燐弾は国際条約で禁じられていないという人に考えてほしいこと

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戦争の違法化は遅々とした歩みですが進んでいます。1928年まで戦争は国家の「権利」だと考えられていました。「戦争に訴えて国家の利益を増進する行為」は主権国家の権利であるとされていたのです。戦争が良くないという合意がなかったのです。ですから理由が何であれ、戦争を起こす自由が国家にありました。

1928年の「ケロッグブリアン条約」で初めてがこれが違法とされました。国家といえども好き勝手に戦争を起こす自由はないとされたのです。「戦争に訴えて国家の利益を増進する権利」などないんだと。

第一次世界大戦の悲痛な教訓が国家をしてこういう合意に至らしめたのですが、国家の手を国家自身が進んでしばるなどということは、あり得ないことです。ここに至るには、被害を受けた民衆の悲痛な訴えと運動が、長期間に渡って積み重ねられねばならなかったのです。この条約は作られてすぐに無効化されてしまいました。しかし死んだわけではなく、今では国連憲章に反映されています。

ちょっと横道にそれます。

日本国憲法は「国権の発動たる戦争」を禁じていますが、国権とは国家権力ことではありません。国権の「権」は「権力」のではなく「権利」です。日本語では不文明ですが、英文(英文も正文です)では「a sovereign right of the naton」とあります。「right」とは権利です。憲法は「国家の権利行使として発動する戦争」を禁じているのです。つまり「ケロッグブリアン条約」と同じ事を言っています。

「国家の利益を増進する権利の発動」たる戦争、つまり能動的な戦争を禁じているのですから、侵略された場合に発動される受動的防衛戦争はオプションとしての「国家の権利行使としての戦争」に当たらないというのが私の考えですが、これは余談です)

「国際法では○○が禁じられていない」とか「罰則がない」という意見をよく見かけます。それは国際法の説明にすぎません。書いてあることをそのまま繰り返しても、現実の事態に関して何かを言ったことにはなりません。悲惨な現実を前にして、起きている事態を容認・肯定するのでない限り、人権意識を持った一人の人間として、国際法の無力を知ればそれを強化したり改革する必要性を感じるはずです。

国際法を説明してすましている人とは、川でおぼれている子供を前にしながら看板をながめ、「遊泳禁止と書いてある」とみんなに解説している人のようなものです。大切なのは子どもを救うことであって、川の使用法を再確認することではありません。

国際法の基礎には国際慣習法があり、その基礎には人道があります。人道に違背している行為は須く違法化できる論理的可能性があります。終局的には戦争そのものの廃絶が目指されるべきでしょうが、それにはまだまだ長い道のりを経る必要があるでしょう。

当面は不必要に残虐な効果をもつ兵器や兵器の使用法、一般市民に累禍を及ぼさない戦争のルールを要求し、国家の手をしばり、そのことで外交の比重を高めて戦争を未然に防ぐよう努力するしかないと思います。

国連はすでに20件以上の国際紛争を武力行使に至るまでに防いでいるそうです。昨年はマレーシアとシンガポールの領海紛争を平和的に解決し、両国とも国際司法裁判所の判決に従う旨を表明しています。現在はフィリピン、中国、ベトナム、マレーシア、台湾及びブルネイの国境確定作業を続けています。こういう動きは地味なので報道されませんが、国際関係の重要な変化としてもっと注目されてよいと思います。